科学という宗教 2003年5月18日 寺岡克哉
現代の物質文明社会では、「科学」というものが「宗教化」しているように、
私は感じています。
しかしこれは、怪しげな新興宗教が、科学を利用しているという意味ではありま
せん。
私の言う「科学の宗教化」とは、「科学を盲目的に信仰する」ということです。
これは、私も含めて大部分の人に、当てはまるのではないかと思います。科学者
といえども例外ではありません。
その一例として、例えばある人に、「電波は存在するか?」と質問をしてみます。す
ると、現代の常識人であれば、まず間違いなく「電波は存在する」と答えるでしょう。
しかし、電波は見ることも触ることも出来ないものです。
だから、「どうして電波が存在すると言えるのか?」と、さらに質問をすれば、ほとん
どの人が答えに困るのではないでしょうか?
例えば、「テレビやラジオ、無線、携帯電話などが電波を使っているから、電波の
存在はそれで既に証明されているのだ!」と、答える人がいるかも知れません。
しかし、我々が実際に見たり聞いたり出来るのは、テレビやラジオなどの映像や
音声であって、「電波そのもの」ではありません。だからそれで、「電波の存在」を証
明したことにはならないのです。
その証拠に、例えば、「未知の波動や奇跡の力によって、放送局が映像や音声を
送り出しているのだ!」と言われても、それに反論するのがなかなか難しいのです。
つまり、大多数の人が「電波の存在」を信じているのは、科学者たちが言う
ことを、「盲目的に信じている」からです。
「電波の存在は、科学的に証明されている。だから我々は、電波の性質を実際に
応用することが出来るのだ!」
「そして事実、テレビやラジオ、無線、携帯電話などを、我々は作り出したではな
いか!」
と、科学者や技術者たちが言うのを、大多数の人間が疑いを持たずに、信じ込ん
でいるのです。
かく言う私も、「電波の存在」を確実に証明することは出来ません。
ところで私は、大学院生として、物理学の研究室に10年ほど在籍していたことが
あります。実はそのとき、私はよく、電波をオシロスコープで観測していたのです。
(オシロスコープとは、波形を見る測定器のことです。よく病院では、心臓の波形
をオシロスコープで見ています。ピッピッと言いながら、オシロスコープの画面上に
光の波線が写し出され、心臓が停止すると、ピーと言いながら直線になるやつで
す。)
しかし、電波の波形をオシロスコープで見ても、実際に自分が見ているのは、オ
シロスコープに写し出された「波の形をした線」であって、「電波そのもの」ではない
のです。
そして私は、オシロスコープの使い方は分かっていても、「どうして電波が存在す
ると、オシロスコープが波形を写し出すのか?」は、よく知りません。
だから、「オシロスコープとは、電波の波形を写し出すものなのだ」と、いう
ことを、「盲目的に信じる」しかないのです。
一応そうしておいて、後は色々な電波を実際に観測し、その経験を積むことによ
って、「電波の存在」を確信して行くのです。
例えば、電波を出す装置(発信器)の近くでは、確かにオシロスコープで電波が
観測されること。そして、アルミ箔で電波を遮ったり、発信器から遠く離れたりすれ
ば、オシロスコープの反応が確かに消えること。
また例えば、電波を出す装置(発信器)を自分で作れば、確かに予定した通り
(予定した波長や振幅)の電波が、オシロスコープで観測されること。あるいは逆
に、予定した通りの電波が観測されなかったことから、発信器の設計ミスや故障が
発見できること。そして、発信器の設計ミスや故障を直せば、やはり予定した通り
の電波が観測されるようになること。
このような経験を色々と積んでいくと、だんだんと電波の存在が、肌で「実感」でき
るようになって行きます。そしてついに、電波の存在を「確信」するようになるのです。
しかしそれでも、私のこの「確信」は、「電波が存在する」ということを盲目的
に信じているに過ぎないのです。なぜなら、私はオシロスコープの原理を、完全
に理解している訳ではないからです。
ところで現代人の多くは、「物質が原子から出来ていること」もまた、信じて疑わな
いと思います。今の世の中で、「私は、原子の存在を信じることが出来ない!」など
と公言すれば、変人扱いをされてしまいそうです。
ところが、以前に私が大学院生だった頃、「君は、原子の存在を信じているだろう
が、それを万人が納得できるように証明することができるか?」と、教授から言われ
たことがあるのです。
今ここで白状しますが、私には出来ません。つまり私は、原子の存在を盲目的に
信じているに過ぎないのです。
少し言い訳をしますが、「原子の存在」を証明するためには、化学、原子スペクト
ル、X線回折、半導体、量子力学などの、かなり高度な知識が要求されます。しかし
それでも、それは「原子を直接に見た」わけではありません。色々な実験による「間
接的な観測データ」が、「原子の存在を想定した理論」と、一致するというだけなの
です。
最近になって、特殊な顕微鏡(走査型トンネル電子顕微鏡)により、原子が一つ一
つの粒子として観測されるようになりました。しかしそれでも、それは原子を実際に
見ている訳ではなく、「電気信号を画像に変換したもの」を、見ているに過ぎないの
です。
私でさえこうなのですから、いわんや世間一般の大多数の人は、「原子の
存在」を盲目的に信じているに違いないと思うのです。
「科学」と言えば、一見すると「盲目的な信仰」から程遠いもののような気がします。
そして「科学」と「宗教」は、お互いに対立するものであり、相反するものであると、大
多数の人が信じていると思います。
しかし、「科学的な証明」はあまりにも複雑で、普通の人にはなかなか理解できま
せん。本職の科学者でさえも、自分の専門以外の分野になると、なかなか理解でき
ないほどです。
だから、「この事実は、科学的に証明された!」と、その専門分野の科学者に言
われれば、他の人はそれを信用するしかないのです。
そのような状況なので、大多数の人間が、科学を盲目的に信仰してしまっている
のです。つまり、大多数の人にとっては、科学が宗教になっているのです。これ
が、私の言う「科学の宗教化」です。
「宗教」を信仰する人間が「神の存在」を信じるのと、「科学という宗教」を信仰す
る人間が「原子の存在」を信じるのとでは、その本質的な意味合いにおいて、ほと
んど差がないように私には思えるのです。
最近の新興宗教が、科学的な処方を取り入れようとするのも、以上のことが原因
になっているような気がします。
目次にもどる