愛の完成          2003年5月4日 寺岡克哉


 前回のエッセイ62では、「最高の愛の感覚」についてお話しました。しかし私は、
それが「愛の完成」であるとは考えていません。

 確かに、「最高の愛の感覚」は大変に素晴らしいものです! 特に、生命の否定に
苦しんでいる方には、このような「愛の感覚」が得られるようにと、願ってやみません。
 しかしながら、「愛の感覚」が最高に高められた状態とは、心が安定しているとは
いえ、精神と肉体が極度に高揚した状態です。つまり、「生命にとって無理の伴う不
自然な状態」です。
 私は、生命にとって無理の伴う状態が、「愛の完成」であるはずがないと考えてい
ます。なぜなら、一般に「完成された状態」とは、無理がなく自然で、ほぼ永遠に長
続きできる状態のはずだからです。
 「愛の完成」とは、むしろ無意識的な、生命にとって極々自然な状態のよう
に私は思うのです。

 このエッセイでは、現時点の私が考えている「完成された愛」について、お話して
みたいと思います。

 「愛の完成」とは、一体どのようなものでしょうか? 私は、新約聖書の一節にそ
のヒントを見つけることが出来ました。
 「父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を
降らせてくださる・・・。」 (マタイによる福音 5−45)
 この言葉は、「神の愛(つまり完成された愛)」とは、善人も悪人も差別せず、万人
(全ての生命と考えても良いと思います)に対して、別け隔てをしない愛であるこ
とを示しています。
 そしてまた、「完成された愛」とは太陽や雨のようなもの、つまり日光や水(空気も
含めて良いと思います)のようなものだと言っています。

 日光や水や空気は、それらに十分に満たされていると、その重要性にあまり気が
つきません。しかしこれらは、生命にとって大変に重要なものであり、それらが欠如
すれば、生命は絶対に生きることが出来ません。日光や水や空気が少しでも不足
すると、生命は大変な苦しみに見舞われてしまいます。
 これと同じように、「完成された愛」に十分に満たされているときは、その存在に
あまり気がつきません。しかしその愛が少しでも不足すれば、生きていられない程
の不安や孤独が襲って来るのです。
 そして日光や水や空気は、「全ての生命に愛を与えてやっている!」などというよ
うな、「ことさらな、わざとらしい意識」を全く持っていません。日光や水や空気は無
意識に、全ての生命を育んでいるのです。
 そして日光や水や空気は、「あの生物は気に入らないから、少ししか与えないで
おこう!」というような、「別け隔て」をしません。日光や水や空気は、全ての生物に
平等に分け与えられるのです。
 つまり、「完成された愛」とは、
 全ての生命に、平等に与えられる愛。
 ことさらな、わざとらしい意識のない、無意識的な愛。
 そして、生命が生きるために絶対に欠くことの出来ない愛です。

 このように、日光や水や空気が生命に与える働きは、「愛の完成」を実に良く表し
ています。逆に人類が、日光や水や空気の働きを長年にわたって観察することに
より、「愛の完成(神)」の概念を抽出したのだと思います。

 次に、「完成された愛」に近いものとして、「植物の愛」というのをお話したいと思い
ます。
 植物は光合成により、日光と水と空気中の二酸化炭素から、炭水化物と酸素を
作ります。つまり植物は、地球の全ての動物に、食料と酸素を供給しているのです。
 植物が存在しなければ、全ての動物は生きることが出来ません。植物は、地球の
全ての動物の命を支え、育んでいるのです。そしてこれが、「植物の愛」です。
 ところで植物は、動物に食べられても、不平や不満を何ひとつ言いません。植物
は、ただ黙って動物に食べられるのみです。しかし、動物に対して怒ったり、憎ん
だり、恐れをいだいたりしません。そして、「自分を犠牲にして動物を養っているの
だ!」という、ことさらな、わざとらしい意識も持っていません。
 植物は無意識的に、ただ「あるがまま」に、自然に生きているだけです。それでい
て地球の全ての動物に、生命の源(食料と酸素)を与え続けているのです。
 このような「植物の愛」は、「愛の完成」に大変に近いものと思います。

 今までの話を参考にして、「愛を完成させた人」とはどんな人かを考えてみると、
次のようになると思います。
 「愛を完成させた人」とは、一見すると空気や水のように目立たない人です。
しかし、その人がいなくなれば、周囲の人々は空気や水を失ったかのように
苦しみます。
 また、「愛を完成させた人」は、温かな日ざしのような愛の光(愛の雰囲気)
を周囲に放ちます。そして、どんな人間も差別することなく、全ての人(全て
の生命)に愛を与えるのです。

 「愛を完成させた人」は、特に目立ったことをする訳ではありません。普段はその
存在すら、周囲の人々に気づかれないかも知れません。
 しかしその人がいなくなれば、その途端に都合の悪いことが色々と生じ、周囲の
人々は大変な苦しみに見舞われるのです。「いなくなってはじめて、その人の大切
さが分かる!」と、いうような人です。
 「愛を完成させた人」は、「愛そう!」とか、「愛を与えよう!」とか、「他人の役に
立とう!」などという、小ざかしい了見を持ちません。ただ無心に、あるがままに生
きているだけです。しかしそれでいて、多くの人々の心を愛で満たし、人類にとって
かけがえのない存在になっているのです。「愛を完成させた人」とは、そのような人
だと私は思います。

 「愛の完成」とは、大変な努力を強いられたり、自分の命を犠牲にするよう
なものではないと、今の私は考えています。
 上に挙げた植物や人間の場合に限らず、地球の全ての生命の、あるがまま
の自然な状態の中に、「愛の完成」が存在するのだと思っています。




                
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