「最高の愛」の感覚 2003年4月27日 寺岡克哉
私は最近、座禅をして瞑想をすると、比較的容易に「愛の感覚」を高めて行くことが
出来るようになりました。
ここで私の言う「愛の感覚」とは、私の中に「愛」が存在するときに感じる、「心の感
覚」と「体の感覚」の両方のことです。
私は、盲目的で理性の伴わない「感覚だけの愛」は、大変に危険だと考えていま
す。しかしながら私は、
「愛の感覚」というのは、どこまで高めることが出来るのか?
「最高の愛」の感覚とは、どのようなものなのか?
ということを、無性に探求したくなるのです。この欲求に駆られるとき、自分が何か
「見えない力」に導かれているような気さえします。たぶんこれは、食欲や性欲と同じ
ような、「生命の根源的な欲求」なのかも知れません。
そしてまた、「生きているのは辛くて苦しいだけだ!」と感じている人に、「生命
の肯定」の努力を積めば、このような幸福感が得られることを、是非とも知って
ほしいのです。
だから私は、「愛が最高に高まった状態」というのを感じたら、そのつど書き残して
行きたいと思っています。
* * * * *
瞑想に入り、まず最初に訪れる「愛の感覚」は、最愛の異性と「ギューッ」と抱きし
め合って、「身も心もひとつに溶け合ってしまいたい!」と、いうような感覚です。ある
いは、「愛する異性に、自分の身も心も全てを捧げたい!」と、いうような感覚です。
この「愛の感覚」は、単なる「肉体的な性欲」を既に超越した愛です。なぜなら、心
は大変に高揚しているのですが、官能的な肉体の反応(男性で言えばペニスの勃
起)が存在しないからです。
しかしながら、胸が「キュン」としたり、「ジーン」としたり、「ドキドキ」したり、「ワクワ
ク」したりして、めくるめくような、とろけるような幸福感があります。
また、全身に生命のエネルギーが満ちて、手や足が「ジンジン」とします。体の全体
がほんわかと温かくなり、少し頭に血が上って「ポーッ」とします。
そして全身が、温かくて優しい愛の雰囲気(愛の光や波動)に包まれている感じが
するのです。
このように、「愛の感覚」が生じる最初の段階は、「異性に対する愛」から始まるよ
うな気がします。
しかしこの「愛の感覚」は、単なる肉体的な性欲よりも「高い次元の愛」であるのは
確かです。なぜなら、このような精神状態のときに、異性との性行為などの「肉欲的
な連想」をすると、返って「愛の感覚」が消滅し、心がしらけてしまうからです。
ところで、以上のような「愛の感覚」をつかむためには、多少の「性的な禁欲」が必
要かも知れません。というのは、性欲を少しも我慢せずに、「性的なエネルギー」を
直ぐに放出してしまうと、「愛の感覚」を高めるためのエネルギーが消耗してしまうか
らです。
しかし「禁欲」とは言っても、性欲を頭ごなしに抑えつけるのではありません。性的
なエネルギーを、心を上昇させるためのパワーに転化するのです。つまり、自分の
心を抑えつけるのではなく、性欲のパワーで心をどんどん上に押し上げるようにする
のです。だからこの「禁欲」には、心を抑圧したときに生じる、胸や喉や息のつまる
ような「鬱屈感」はありません。
「愛の感覚」の正体は、実は「性欲を昇華したもの」ではないかと、私は推測してい
ます。
「愛の感覚」がさらに高まると、上でお話した「異性とひとつに溶け合いたい!」とい
う感覚が、赤ん坊や子供に対しても感じるようになります。
「異性が愛しい!」というのと同じような感覚が、赤ん坊や子供に対しても起こるの
です。赤ん坊や子供を、「ギューッ」と抱きしめたくなってしまいます。私に子供はい
ないのですが、「目の中に入れても痛くない!」というのは、このような気持ちなのか
も知れません。
さらには大人や老人にも、親密な感情が起こって来ます。そして、病人や怪我人、
体の不自由な人、精神的に苦しんでいる人、戦争や飢えに苦しんでいる人たちに対
して、
「何とか元気づけてあげたい!」
「苦しみを取り除いてあげたい!」
「自分の愛のエネルギーを、注いであげたい!」
と、いうような感情が起こって来るのです。もちろん、それら全ての人を救うのは不
可能ですし、自分が実際に出来ることは非常に限られています。しかし、心の底か
ら湧き出るエネルギーのようなものが、そのような感情を起こさせるのです。
ところで、以上のような愛の感覚、つまり「隣人愛」や「人類愛」は、「異性に対する
愛」よりも高い次元の愛であるのは確かです。
なぜなら、このような精神状態の時に、「一人の異性だけを、命を懸けて愛する!」
という思いを起こしてみると、何か二人だけの狭い世界に閉じこもっているだけの
「窮屈さ」を感じるからです。そして、「異性への愛」だけに閉じこもるのは、所詮は
エゴイズムの延長でしかないような気がして、「愛の感覚」が消え去ってしまうからで
す。
さらに「愛の感覚」が高まると、動物や植物を含めた「地球の生命全体」と一つに
つながり、一体になりたいという感覚になります。
鳥も獣も魚も草も花も木も、全ての生命が愛しく感じられます。そして全ての生命
と、愛を分かち合いたくなります。
自分が生きていることと、この地球に生命が存在することが、嬉しくて嬉しくて仕
方がなくなります。そしてそれが、涙がでるほど有難く感じて来ます。
ところで・・・ 生命には、怒りや憎しみ、エゴイズム、闘争、殺し合いなどの「悪」
の性質が存在します。しかし、それら「生命に存在する悪の性質」をも含めて、「生
命」というものの存在を、認めることが出来るようになります。
もちろん、「生命に存在する悪の性質」を容認する訳ではありません。しかし、そ
れを理由にして、生命を否定する気持ちが起こらなくなるのです。
とにかく、ただひたすら、全ての生命の平和と幸福が、自分の望みの全てになる
のです。
「愛の感覚」がさらに高まった状態が、私が経験した中で、「最高の愛の感覚」
です。
この状態になると、精神が高いレベルの一点に「ギューッ」と集中し、何も考えら
れなくなってしまいます。つまり思考が停止して、「頭が真っ白」になるのです。
思考が停止するので、感情も静まります。だから、心が非常に安定して来ます。
もう、「ドキドキ」も、「ワクワク」もしません。
しかし精神の状態は、非常に高いレベルに高揚し、一点に集中しています。そし
て体の全体に、「ジンジン」とした生命のエネルギーが満ち溢れます。さらには、優
しく温かな愛の雰囲気(愛の光や波動)に、全身が包まれます。
このような精神状態になると、もう、「愛している!」とか「愛を与えたい!」という気
持ちが消滅してしまいます。
そして、「これで良し!」、「全て良し!」、「あるがままで良し!」と、いう感じがする
のです。(ところで、言語による思考が生じると、このような「最高の精神状態」から
落ちてしまいます。しかし、言語によらない感覚として、「これで良し!」という感じが
するのです。つまり、心が求めている最大の欲求と、心の状態がぴったりと一致し、
大変な満足と幸福を感じるのです。)
また、自分自身に対する執着も消滅してしまい、ことさらに小賢しいことを、何もす
る気が起きなくなります。そして、「なるようになる!」とか、「全てを大いなるものに
任せれば良い!」と、いう気持ちになります。
「愛の感覚」が最高に高まると、思考と感情が静まり、心は穏やかに安定し
ます。
しかしこれは、生きているのか死んでいるのか分からないような、無気力で虚無
的な状態。つまり、「心が死んでいる状態」とは、全く異なる状態なのです。
なぜなら、精神と肉体は高揚し、生命のエネルギーが心身に満ち溢れているから
です。そして全身が、優しく温かな愛の雰囲気(愛の光や波動)に、包まれているよ
うな感覚が存在するからです。
「神の国」とか、「涅槃(ニルヴァーナ)」とか、「宇宙との一体感」というのは、この
ような状態を言うのかも知れません。
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