本能的な自己と理性的な自己
2002年4月10日 寺岡克哉
ところで前に(エッセイ5で)、生存本能による自己愛は本能的な愛だと言いまし
たが、これは動物の場合に限ってのことです。
人間の場合は、同じ自己愛でも「本能的な自己愛」と「理性的な自己愛」が存在
します。人間は、本能と理性の両方を備えているからです。
「本能的な自己愛」は、自己の生存、身の安全、食欲や性欲の充足、などを求
める行動や感情として現れます。本能的な自己愛は、エゴイズム丸出しの、実に
利己的なものです。
一方、「理性的な自己愛」は、自己の徳性を高める努力、克己、利他の精神の
育成、自己犠牲的な行動、などとして現れます。
この理性的な自己愛は、一見すると自己愛ではないように思えます。自己の徳
性を高めるために禁欲や精神修養の苦痛に耐えたり、自分のことよりも他人のこ
とを大切にしたり、最悪の場合は、他人のために自分の命をも犠牲にすることが
あるからです。
理性的な自己愛は、自己の本能的な欲求を抑制するのだから、どちらかと言え
ば自己否定のようにも思えます。
しかし理性的な自己愛を、自己否定と取るか、自己肯定と取るかは、自分の自
己の本質を、「本能的な自己」とするか、「理性的な自己」とするかによるのです。
「本能的な自己」とは、「霊長目ヒト科の動物」としての自己です。本能的な動物
としての自己です。飲んで、食べて、性欲を満たして、寝るという、単なる動物とし
ての自己です。
「理性的な自己」とは、「人間」としての自己です。本能的な動物ではなく、「理性
的な存在」としての自己です。人間的な精神、善い人格、良識、徳性、人の心、思
いやり、人格の尊重、隣人愛、人類愛、慈悲などを生じさせる、理性的存在として
の自己です。
理性的な自己愛は、「本能的な自己」にとっては自己否定になります。しかし「理
性的な自己」にとっては自己肯定になるのです。
つまり、「霊長目ヒト科の動物」としては自己否定ですが、「人間」としては自己肯
定なのです。
理性的な自己愛は、「本能的な自己」を否定し、「理性的な自己」を肯定して育成
し、強化するという自己愛です。理性的な自己を成長させるという自己愛なのです。
ここで誤解を招かないように注意しますが、「本能的な自己を否定する」などと言う
とすぐに、「食欲を否定すれば餓死するではないか」とか、「性欲を否定すれば人類
が絶滅するではないか」という人が、どこにも必ずいます。
そしてまた逆に、「苦行」などと称して過度の断食をし、本当に餓死してしまうような
人もいます。
しかしこれらはみな、非理性的な言動です。「理性的な自己愛」の、本当の意味を
理解しない者の言動です。
「理性的な自己愛」とは、あくまでも理性的なものです。理性的な自己愛による「本
能的な自己の否定」とは、あくまでも理性的に、「必要以上の本能的欲求を、過度に
求めることを否定する」と言うことです。健全な体と、種族を維持するために必要な
本能的欲求は、当然認めるものです。
「理性的な自己」を最大限に成長させるために、「本能的な自己」の欲求を極力
抑制するという意味での、自己否定なのです。
ところで、「なぜ理性的な自己愛が必要なのか?」とか、「本能的な自己愛だけ
で十分ではないのか?」と、いう人がいるかも知れません。
そしてさらには、「そもそも”理性的な自己”というもなど必要があるのか?」とか、
「霊長目ヒト科の動物でなにが悪い!」という所まで、開き直ってしまう人もいるか
も知れません。
しかしこれらの言動は、「理性的な自己」の存在を認めない人たちの言動です。
「理性的な存在としての人間」を認めない者の言うことです。
人間は、単なる動物ではなく、あくまでも「人間」なのです。「人間」である以上は、
自分の心の中に「理性的な自己」の部分が必ずあるのです。
そして、「本能的な自己」を増長させるあまり、「理性的な自己」の存在を否定し、
蔑ろにすると、「人間」は、生きていても面白くなくなって行きます。だんだんと生き
る意欲が失われ、生命が暗くなって行きます。何のために生きているのか、分から
なくなって行きます。
「人間」が生きる意義を得て、いきいきと生きるためには、「理性的な自己愛」に
よって「理性的な自己」を成長させて行くことが、どうしても必要なのです。
なぜそうなのかと言えば、「人間」は理性的な存在だからです。「人間」は、単なる
本能的な動物のみとしては、生きて行くことが出来ないからです。
「理性的な人間」にとっては、「隣人愛への欲求」や「人類愛への欲求」などの、理
性的な欲求を充足させ、「理性的な自己」の成長と、「理性的な人間」の増加が、生
きる意義や生きる目的になっています。
これは、「本能的な動物」が、食欲や性欲などの本能的な欲求を充足させ、動物
個体の成長と増殖を生きる意義や生きる目的にしているのに対応します。
ところで、「理性的な自己」が完全に欠落した人間、自己の本能的な欲求を満た
すために、強姦や殺人をやりたい放題にやっても、なんの良心の呵責も、罪の意
識も、全く感じない人間。本当に心の底から、これっぽっちも全く感じない人間・・・。
私としてはとても信じられないのですが、しかしこれは、論理的な可能性としては
存在します。
なぜなら、「理性的な自己」は最初から存在するわけではなく、後天的に獲得す
るものだからです。
生まれたばかりの赤ん坊には、高度な思考能力がなく、理性もありません。だか
ら「理性的な自己」は、赤ん坊には存在しないのです。
しかしながら、狼などに育てられたのならいざ知らず、人間社会の中で普通に
育てられたのならば、「理性的な自己」は誰にでも自然に生じるものと思います。
最近の、突然にキレて理由にならない理由で人を殺す事件などを見ると、「理性
的な自己の欠落」のように外見上は見えます。
しかし、これは欠落というよりは、何らかの原因で、ある時期を境にして、ある
きっかけで、自らの意志で「理性的な自己」をあえて否定し、捨て去ったのだと思
います。
そうしなければ精神的に耐えられないような、何らかの外的な要因が働いたの
だと思います。なぜなら、「キレる前」は理性的な存在だったからです。
しかしながら、「理性的な自己」を日々育成し、強化して行かないと、ちょっとした
ことでキレやすくなるのも事実です。
そしてまた、例えば「金さえ儲かればいい!」と言うことで、「理性的な自己」の
育成を軽視し、蔑ろにしている社会風潮も、私は肌で感じています。
しかし原因がどうであれ、「理性的な自己の放棄」は、人間であることを
放棄したのと同じことです。「人間」として、やってはならないことです!
「理性的な自己愛」によって「理性的な自己」を日々育成し、強化して行くこと。
そして「本能的な自己」よりも「理性的な自己」の方を、自分の自己の本質に
変えて行くこと。
そのことによって人間は、「霊長目ヒト科の動物」から「真の人間」に成長する
ことが出来るのです。
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