生命を肯定する正しい愛   2003年3月16日 寺岡克哉


 「愛」は、生命を肯定するはずなのに、なぜ、得てして「生命を否定する愛」というの
が存在してしまうのでしょうか?
 「愛」は、人間を幸福にするはずなのに、なぜ、「人間を不幸にする愛」というのが存
在するのでしょうか?
 私は今まで、「愛」についての色々な考察を行ってきました。その結果、愛には
「生命を肯定する正しい愛」と、「生命を否定する間違った愛」が存在することまでは、
分かって来ました。つまり、
 「愛は善である!」とか、
 「愛が全てである!」
 「愛は世界と人類を救う!」
と、単純に信じてしまうのは、大変に危険であることが分かったのです。
 しかし、それでは一体、何が「正しい愛」で何が「間違った愛」なのでしょうか?
 私は、「生命の肯定」を探求する者として、これは非常に大切な問題だと考えてい
ます。人類が「間違った愛」に導かれてしまうと、時として最悪の事態を招いてしまう
からです。
 絶対に信じて間違いのない、「完全に正しい愛」というのを、私はどうしても知りた
いのです。そうすれば、後はあれこれと悩む必要がなくなり、「完全に正しい愛」の一
点を目指して、一歩一歩人生を歩き続ければよいからです。
 しかしながら、「完全に正しい愛」をつかむことは、なかなか難しいのが実情です。
そこで、今まで行ってきた愛についての考察を少し整理し、「正しい愛」の方向性を
いくらかでもつかみたいと思いました。

 今まで私が行った考察をふり返り、見直してみると、
 「本能的な愛」と「理性的な愛」
 「求める愛」と「与える愛」
 「執着を伴った愛」と「執着を捨て去った愛」
 「激しく強い愛」と「優しく穏やかな愛」
 「狭い愛」と「広い愛」
などの観点から、愛についての考察を行っていました。
 上記で、左側が「生命を否定する要素」の存在する愛で、右側は、特別な例外を
除けば、生命を否定する要素が存在しない愛です。
 しかし、左側の愛が不必要だという訳ではありません。左側のものも、生命にとっ
て大切な愛です。「生命の肯定」のためには、左側の愛も絶対に必要なのです。そ
この所が、「正しい愛」の問題を難しくしています。
 以下、左側の愛のそれぞれについて、もう少し詳しく見て行きたいと思います。

 「本能的な愛」には、生存本能による自己愛や、恋愛や性愛、母性愛などがあり
ます。これらは、生命と種族の維持にたいへん重要な愛です。これらの愛が存在
しなかったら、自分の生命を維持することも、子供を作る相手を選ぶことも、子供
を作ることも、子供を育てることも出来ません。
 しかし本能的な愛は、時として、盲目的で非理性的になってしまう場合がありま
す。それで、「生命の否定」を招いてしまう可能性があるのです。本能的な愛を「生
命の肯定」に導くためには、理性的な要素が必要不可欠なのです。

 「求める愛」も、全く存在しなかったならば、人間の生活が味気のないものになっ
てしまいます。異性を求める愛、子供が求める親の愛情、友人や仲間を求める愛、
真理、善、美、あるいは神仏を求める愛。これらの愛が人類にうるおいを与えてい
ることは間違いありません。
 しかし、”人間を相手”に愛を無限に求めてしまうと、問題が起こるのです。愛を求
められた相手の人間が、疲れはててしまうからです。そして大抵の場合は、そのよ
うな人間関係は長続き出来ずに壊れてしまいます。
 人間を相手に、愛を無限に求めてはなりません。「無限の愛」をどうしても求めた
ければ、神仏か、あるいは「大生命の大愛」などの、人間以外のものに求めなけれ
ばなりません。

 「執着を伴った愛」も、完全に否定してしまうことは出来ません。ある程度の「執着
を伴った愛」が無ければ、人間関係が維持できないからです。恋人に対する執着、
子供や家族に対する執着、友人や仲間に対する執着。これらが全く存在しなけれ
ば、人類社会が成り立ちません。
 そしてまた、釈迦やキリストの愛にも、「人類を救済したい!」という、ある意味で大
変に強い執着が存在しているのです。
 「執着」は、物事を維持するための原動力です。だから、執着を完全に消し去るこ
とは間違いです。しかしながら、何事も執着しすぎると、返って悲劇を生んでしまうこ
とが多々あるのです。

 「激しく強い愛」は、悲劇を招く可能性が高いと思います。激しすぎる恋愛や、盲目
的な国家への愛や、狂信的な神への愛は、大きな悲劇の元です。
 しかしながら時として、「自分の命をかけても大切なものを守る!」という、「激しく
強い愛」が必要な場合もあります。しかし、そのような事態はなるべく起きない方が
良いのは、言うまでもありません。

 「狭い愛」は、愛し合っている人間同士の間では、何の問題もありません。しかし
それ以外の人間に対して、無関心や冷酷になる傾向があるので問題なのです。
 「狭い愛」だけに閉じこもってしまうと、「自分達さえ良ければそれでよい!」と、いう
ことになり、他者を排斥したり対立を招いたりするのです。

 ところで、テレビや小説などでは、本能的で、激しく強く求めて執着する男女の愛。
と、いうのがテーマになりがちです。つまり上記の左側の要素だけを、不自然なほど
いびつに強調した愛です。
 このようにすると、エキサイティングで面白いからです。そして、「これが本当の真
実の愛だ!」と、いうような誤った認識を、世間一般の人々に広げているような気が
します。
 しかしこれこそが、「生命を否定する間違った愛」の典型的な例なのです。このよう
な愛は絶対に長続き出来ませんし、不幸と悲劇の元です。不倫や離婚、家庭崩壊、
妊娠中絶、暴力、傷害、殺害、自殺、心中などが起きてしまうのは、この類いの愛な
のです。

 しかし、それよりもさらに大きな悲劇を生むのは、盲目的な国家への愛や、狂信的
な神への愛です。最近の切迫した国際情勢をみても、こちらの方がはるかに大きな
問題であることが分かります。
 「激しく熱狂的で、世界を二分するほどの中途半端に広い愛(最悪の狭い愛)」と、
いうのが、人類にとって最も危険な愛のように思います。

 以上の考察より、激しく強く熱狂的な愛で、しかも人間集団の規模が大きくなれば
なるほど、危険な愛であることが分かって来ました。
 「愛」を生命の肯定に導くためには、やはり、「理性的な要素」が大変重要になって
来ます。しかも、人間集団の規模が大きくなればなるほど、「理性的な要素」の重要
性と責任が大きくなります。

 理性的で、過度の執着を捨て去った、優しく穏やかな愛。
 人類全体や、生命全体を視野に入れた広い愛。(国家や民族、同一宗教に
限定するような、「中途半端に広い愛」は絶対にいけません。)
 そして、「求める愛」よりは「与える愛」。
 これが、「生命を肯定する正しい愛」の方向と考えて良さそうです。



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