愛と執着         2003年3月9日 寺岡克哉


 愛と執着は、一見すると全く違う概念のように思えます。しかしこれらは、実はた
いへん良く似た感情なのです。だから、「執着」のことを「愛」だと誤解している人も、
大勢いるのではないでしょうか?
 確かに、執着の全てが愛である訳はでありません。怒りや憎悪に対する執着、復
讐に対する執着、金や名誉、権力に対する執着なども存在するからです。
 しかしながら、「執着を伴った愛」といえるものが、数多く存在することも事実なの
です。
 この「執着を伴った愛」とは、例えば、相手の気持ちや人格を尊重しないような、
自分勝手な恋愛や性愛などがその典型です。
 これらの愛は、得てして、怒りや憎悪の原因となってしまうことがあります。場合
によっては、喧嘩や暴力(言葉の暴力も含む)が起こり、最悪の場合には、自殺
や殺傷事件に及ぶ場合も皆無ではありません。つまり執着を伴った愛は、「生命
の否定」を招いてしまうことがあるのです。

 正しい愛(生命を肯定する愛を、私はこのように呼んでいます)を持つためには、
過度の執着(自己への執着と、欲望への執着)を、捨て去らなければなりません。
 そのような理由から、
 「愛するためには自己否定が大切だ!」とか、
 「自己滅却が重要だ!」
 「自己の欲望を抑える謙虚さが必要だ!」
等々のように、昔から言われて来たのだと思います。

 ところで・・・ 自己否定に激しく取り憑かれている時に、「自己否定が大切だ!」
などと言われれば、「それでは、もう死ぬしかないではないか!」と、思ってしまう
かも知れません。自己否定に取り憑かれていた以前の私が、そのような心境でし
たから・・・。
 しかしこれは、単なる自己否定ではなく、「生命の肯定」のために必要な自己否
定なのです。すこし話がややこしいのですが、「過度の執着を捨てる」という自己
否定が、生命を肯定するためにどうしても必要なのです。(そのことは、エッセイ
54でも少し述べてありますので、そちらも参照して下さい。)

 次に、「執着のない愛(生命を肯定する正しい愛)」と、「執着を伴った愛」の具体
的な例をいくつか挙げ、その相違点について考えてみたいと思います。
 まずはじめに、「執着を伴った愛」の具体例を挙げます。
(1)相手に対して、見返りを求める愛。
 これは、相手から愛されることを期待して、相手を愛することです。見返りを求め
る愛は、「相手から愛されたい!」という、自分の思いに執着しているのです。
 だから、自分の思いに反して相手が愛を与えてくれない場合は、不安や焦燥、
怒り、憎悪、嫉妬などの感情が起こってしまいます。
(2)自分だけを愛させようとすること。
 「私だけを愛して!」とか、「俺だけを見ていろ!」と、いうような感情のことです。
これは、「相手の愛を自分だけのものにしたい!」という思いに、執着しているの
です。
(3)強引な片思いや、横恋慕。
 これも自分の感情に執着し、相手の気持ちや迷惑を考えていません。
(4)不倫や心中。
 この場合は、当事者同士の相互理解は存在しています。お互いに強く愛し合って
いることは確かでしょう。しかし、「自分達だけ」の感情に執着し、家族や周囲の人
の心配や苦しみを、全く考えていません。
(5)ストーカー行為
 これは、自分勝手な執着以外の何物でもありません。自分では、相手を大変に強
く愛しているつもりになっているかも知れません。しかし、相手の迷惑を全く考えない
どころか、危害まで加えてしまうという、自分勝手で卑劣な犯罪行為です。
(6)自身過剰、自意識過剰、エゴイズム、ナルシシズムなど。
 これらの「間違った自己愛(エッセイ31参照)」の根底にも、強い自己執着が存在
すると考えられます。

 次に、「執着のない愛(生命を肯定する正しい愛)」の具体例について挙げます。
(1)見返りを求めない無償の愛。
 この愛には、「相手から愛されたい!」という執着がありません。
(2)相手の気持ちや人格を尊重する愛。
 この愛には、自分の気持ちや思いを最優先にするという執着がありません。
(3)広く心が開かれ、差別をしない愛。
 これは、あの人は好きだけど、この人は嫌いだというような、「特定の自分の好
み」に対する執着がありません。
(4)怒りや憎悪を抑える愛。敵を憎まない愛。
 これは、自分の気持ちを強く抑制してまでも、相手を思いやるという愛です。憎み
たい相手をも憎まないという点で、(3)の差別をしない愛を、さらに強力におし進め
たものと言えます。

 ところで、「執着を伴った愛」は、ある種の大変に強い興奮や快楽があります。つ
まり、エキサイティングなのです。
 しかしその反面、非常に大きな「執着の苦しみ」と言えるものが存在するのです。
「執着を伴った愛」には、恐れや不安が常につきまといます。時として、爆発的な怒
りや嫉妬が生じることもあります。自殺や心中、殺傷事件が起こることもあります。
そして、周囲の人に大変な不幸と苦しみをばらまいてしまいます。
 「執着を伴った愛」は、エキサイティングであるために、多くの人を惹きつけます。
しかし、結局は自分自身を破滅させて、自分を不幸にしてしまうのです。

 一方、「執着のない愛(生命を肯定する正しい愛)」は、どちらかと言えば、自分を
抑え、耐え忍ぶというニュアンスがあります。少なくとも、「執着を伴った愛」に比べ
れば、エキサイティングさに欠けます。だから、人を惹きつける魅力もあまりありま
せん。
 しかし、これこそが、周囲の人間に優しさと安らぎを与える、「正しい愛」なのです。
そして、自分自身を本当に幸福にする愛なのです。

 ところで、「幸福」とは、一時的な快楽や興奮のことではありません。そのようなも
のは、どちらかと言えば「苦しみ」です。
 一時的な快楽や興奮には、深い喜びがありません。常に空しさがつきまといます。
そして、もしも快楽や興奮状態を長く続けることが出来たとしても、疲れ果てて苦し
むだけです。そんな状態が長く続けば、精神が不安定になり、体にも心にも異常を
来たしてしまいます。
 つまり快楽や興奮は、生命としては「一時的な異常な状態」なのです。だから長く
続けることは出来ないし、もしも無理やりに快楽や興奮を長く続けさせようとすれ
ば、それは苦しみになり、体にも心にも異常を来たしてしまうのです。

 生命の「真の幸福」とは、優しさと安らぎなのです。優しさや安らぎは、エキサイテ
ィングではないので、少し退屈に感じるかも知れません。しかし、その中にこそ、何
物にも換えがたい深い喜びがあるのです。
 優しさと安らぎは、永遠に続いても苦しみになりません。体や心に異常を来たす
こともありません。
 それは、優しさと安らぎが、生命が本来的に求めている「生命の理想の安定状
態」だからです。つまり優しさと安らぎが、生命が本当に求めている「真の幸福」だ
からです。

 「執着のない愛(生命を肯定する正しい愛)」は、優しさと安らぎという、生命
本来の「真の幸福」が得られる愛なのです。




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