死後の世界について 2003年2月23日 寺岡克哉
私は、天国や地獄などの「死後の世界」を信じていません。(死についての私の考
察は、エッセイ2で述べております。そちらを参照して下さい。)
しかしながら私は、天国や地獄などの「死後の世界」の概念が、なぜ現代において
も人類社会に根強く残っているのかを、考えてみることがあります。
これらの概念は洋の東西を問わず、世界中で何千年も前から形成されているので
す。そして現代においても、天国や地獄の存在を信じている人々が、世界中にまだ
たくさんいるのではないでしょうか。これには、それなりの理由があるはずだと思うの
です。
ある人々にとって天国や地獄は、生命を肯定し、より良く生きるために必要な概念
なのかも知れないと、私は感じています。それを現代合理主義の名の下に、そのよう
な人々から天国や地獄の概念を強引に取り上げるのも、理不尽に思うのです。
しかし私は、天国や地獄の概念に対して、それほど強くはないのですが、ある種の
嫌悪を感じています。なぜなら、今までの宗教があまりにも出たら目をやって来たか
らです。
例えば、「お布施をたくさん出せば天国へ行ける!」などと一般民衆をそそのかし
て金を巻き上げたり、「殉教をすれば天国へ行ける!」と、人々を洗脳して宗教戦争
に駆り出したりしたからです。つまり天国や地獄の概念を、金儲けや戦争の道具に
したからです。
しかしそれでも、天国や地獄などの「死後の世界」を信じている人が現代でも多く
いるのは(つまり宗教的な考え方が、人類から払拭できないのは)、それなりの理由
があるからだと思うのです。その理由について私なりに考えてみたことを、以下にお
話してみたいと思います。
まず第一に考えられる理由は、「死」に対する恐怖です。
「死後の世界」を信じる人々は、死によって「自我意識」が永遠に消滅してしまうこ
とが、恐ろしくて耐えられないのだと思います。だから、「自分が死んでも、死後の世
界で自我意識は永遠に存続する!」と、信じていたいのだと思います。
また、たとえ死後の世界を信じない人であっても、老齢になって体が衰弱したり、
末期ガンなどの助からない病気になったときには、死後の世界を信じたくなるかも
知れません。
第二に、天国や地獄の存在は、この世を正しく生きるための動機づけになります。
「死後に天国へ行きたい!」とか、
「死後に地獄へ落ちたくない!」
という気持ちが、この世で善を為し、悪を為さないことの動機になるのです。
死後に天国へ行きたいから、多少は嫌なことや損なことになっても、この世で善い
行いや正しい行いをするのです。また、死後に地獄へ落ちるのが嫌なので、殺人や
犯罪などの悪を為さないのです。
天国や地獄は、永遠に続く世界です。天国へ行けるか地獄へ落ちるかは、永遠に
続く幸福か、永遠に続く苦しみかなのです。それに比べれば、人生における50年や
100年ぐらいは、少し我慢して正しく生きようという気持ちになるのだと思います。
天国も地獄もなく、死ねば皆同じになってしまうのならば、無理をして善い行いや正
しい行いをする必要もなく、「生きている間に、悪いことでも何でもやりたい放題にや
ればよい!」と、言うことにもなりかねません。
昔の時代は、法律や警察力が現代ほど整備されていなかったので、社会秩序を
保つためにも、天国や地獄の概念を民衆に浸透させる必要があったのかも知れま
せん。
第三に、天国や地獄の概念は、「愛する人を失った苦しみ」を和らげることが出来
ます。
愛する人が死んだ時は、大変な苦しみに見舞われます。理不尽さと居たたまれな
さに、気が狂いそうになっても不思議ではありません。そのような時に、「死んだあ
の人は、今は天国で幸せに暮らしている」と、心の底から思うことが出来れば、正常
な精神状態を保つことが出来るのです。
例えば、自分の子供や家族や友人が、訳の分からない理由でひどい目に合わされ
て殺された時の、やるせなさと理不尽さには、本当に想像を絶するものがあると思い
ます。
そのような時に、「死んだあの人は、天国で優しい人達に囲まれて、幸福に安らか
に暮らしている」と、心の底から思うことが出来れば、悲しみや、やるせなさなどの苦
しみが、多少は緩和されると思うのです。そして、悲しみから早く立ち直れる可能性
も出て来ると思うのです。
また逆に、極悪な殺人犯などに対しては、たとえ死刑にならなかったとしても、「死
んでから後、永遠に地獄で苦しみを受ける!」と、心の底から思えば、犯人に対する
やり場の無い怒りや憎しみが、少しは緩和されると思うのです。
「悪い人間は、死んでから後、永遠に地獄で責め苦を受ける!」
「悪人は、例え死んでも(例え死刑になっても)、罪を免れることは絶対に出来な
い!」
と、このように思うことにより、犯人に対する怒りや憎悪の苦しみが、多少は和らぐ
と思うのです。(大変に強い怒りや憎悪は、それを感じるだけで、大変に大きな苦し
みなのです。)
愛する人を殺された者の苦しみは、本当に理不尽です。自分に何の過失もないの
に苦しめられるのです。そして殺された当の本人よりもずっと長い年月を、苦しみに
耐え続けて行かなければならないのです。
例え犯人が捕まって死刑になったとしても、殺された人は戻って来ません。このよう
な絶対に解決不能な苦しみを、何とか和らげようと考え出した苦肉の策が、天国や
地獄の概念だと思うのです。
この世には、論理的、理性的、合理的には絶対に解決の不可能な、苦しみ、矛盾、
理不尽、やるせなさが、どうしても存在します。
だから現代においても、やり場の無い理不尽さに対して自分の心を整理し、心の安
定を保つために、天国や地獄の概念が必要な人々がいるのだと思います。
天国や地獄の概念は、過度の怒りや憎しみや悲しみを軽減し、平和に暮らすため
の「人類の智恵」なのだろうと思います。
そしてまた、愛と善と真理の理想郷(天国)に、いつしか自分も行けるのだという希
望が、この世での矛盾に満ちた苦しみを乗り越え、正しく懸命に生きるための原動力
として働くのだと思います。(しかし、自殺をして手っ取り早く天国へ行こうとするのを
防止するために、西洋では古来より自殺を堅く禁止していたのかも知れません。)
それで洋の東西を問わず、世界中で天国や地獄の概念が形成され、現代でもそれ
を信じる人が多くいるのだと思うのです。
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