まる10年にあたって
2012年3月25日 寺岡克哉
今年の3月20日をもって、このサイトで私が文章を書き始めてから、
まる10年になりました。
私の文章を、いつも読んで下さっている方々には、ほんとうに感謝
しております。
今回は、ちょうど節目にあたりますので、私がこの10年間に書いて
来たことを、ちょっと振り返ってみたいと思いました。
* * * * *
まず当初・・・
私が文章を書き始めたころは、「心の問題」をテーマにしていました。
たとえば、初期に書いた「エッセイ12」から抜粋(一部補足訂正)して
みますと、私は当初、以下のような問題に悩んでいました。
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まず第一に、生きることそのものが、苦しくてしょうがない! 毎日を
ただ生きるだけでも、たいへんな苦しみだ。
生きて行くことの恐れや不安・・・ 病気、怪我、失恋、死別、孤独、スト
レス、生存競争、権力争い、人間関係のトラブル、失業、金銭トラブル、
等々等々。生きることの、苦痛や苦悩を数え上げたら限がない。
一方、死は苦しみではないのだ! 「死」は、その本人の実感として、
「生まれる前」や「熟睡」とまったく同じ状態だ。死んでしまえば、何億年
の時間でさえも、一瞬にも感じられない。苦しみを感じている暇や時間
など、まったく存在しないのだ。だから死は、絶対に苦しみではありえ
ない。
そして人間は、遅かれ早かれ必ず死ぬ。死を免れることの出来る人間
は、この世に一人も存在しない。全ての人間が、いつかは必ず死ぬのだ。
これでは、死ぬために生きているようなものだ! 結局は、死ぬことの
ためだけに、たいへんな苦しみに耐えながら、毎日々々生きつづけて
いるのだ。
ところで、地獄のような苦しみの毎日に耐えて、長い年月を苦しみ抜い
てから死んでも、明日にでも直ぐに安楽死をしても、死んでしまえば全く
同じことだ。そして死は苦しみではないし、どうせ全ての人間は、いつか
必ず死ぬのだ。
それならば、さっさと死んでしまった方が、生きる苦しみが短くて済む
だけ、余程ましではないか。生きなければならない理由など、見出せる
わけがない!
だから別に、自殺が悪いことだとは、ぜんぜん思わない。
殺人だって、むしろ他人を、「生きることの苦しみ」から救ってやるよう
なものだ。
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上のような、
自分が生きることを否定(つまり自分の生命を否定)したり、
他人が生きることを否定(つまり他人の生命を否定)したりすることを、
私は「生命の否定」と呼んでいます。
「生命の否定」に取り憑かれてしまうと、自殺、殺人、テロ、戦争、大量
虐殺などの問題が、「どうでも良いこと」になってしまいます。
また、「生命の否定」を、地球上に存在する生命一般に拡張すると、
生命の存在は、苦しみ以外の何ものでもない!
弱肉強食の生存競争をくり返し、苦しみと闘争にあけくれる生命。
こんな生命など、存在しない方がましだ。
そうすれば、この生命界の「大いなる苦しみ」も消滅する。
いっそのこと、みんな殺しあって、生命など地球上から消え去って
しまえば良いのだ!
と、なりますから、地球温暖化や、海洋酸性化、生物多様性、その他
の環境問題などが、「どうでも良いこと」になってしまいます。
だから私は、やはり今でも、「心の問題」は根本的に重要な問題だと
考えています。
たしかに、人類の大部分が、「生命の否定」に取り憑かれてしまう
ような可能性は、とても低いかも知れません。
しかしながら、いま現在の日本のように、
非正規雇用や失業者が増加し、ニートや引きこもり、うつ病などに
陥る人が増え、社会的な閉塞感が蔓延して、将来の見通しが立たなく
なると、
「生命の否定」に取り憑かれてしまう人々が、大々的に増加する恐れ
も、けっして否定できないように思えます。
年間3万人を超えるような自殺の増加や、児童虐待の増加、あるい
は2008年に起こった秋葉原の通り魔事件などは、
「生命の否定」に取り憑かれたことが原因ではないかと、私は考えて
います。
このような「生命の否定」から、解放され、脱却するためには、生命
を肯定するしかありません。
「生命の肯定」は、このサイトの題名でもあり、2006年1月29日
付けの「エッセイ206」まで、3年と11ヶ月間ほど、
「どうしたら生命を肯定できるのか?」という問題に、取りくんでいま
した。
キリスト教思想や、仏教思想なども参考にして、いろいろな考察を
試みましたが、
その結果として、自分なりには、いちおう「心の決着」がついたように
感じています。
つまり私自身も、当初は「生命の否定」に取り憑かれて苦しんでいた
のですが、
「やはり自分は、生きられる限り、精一杯に生きるのが本当なの
だ!」
「地球上から生命が消滅してしまうより、やはり生命は、存在して
いる方が良いのだ!」
と、心の底から思えるようになり、苦しみから解放されたのです。
* * * * *
心の問題について、一通り書き終わった2006年のころ、
「地球温暖化」の問題が、社会的にクローズアップされてきました。
これは、2007年に発表された「IPCC第4次評価報告書」に向けて
の、いろいろな研究成果が、
この頃にまとめられて、世間に発表されるようになって来たからだと
思います。
「生命の肯定」が出来るようになった、私にとって、
「地球温暖化は、ものすごく大きな問題だ!」と、感じるようになって
いました。
(上で述べましたように、「生命の否定」に取り憑かれていては、
「地球温暖化によって生命が滅ぶのは、大いに結構!」と、なってしま
いますから、地球温暖化に対して問題意識の持ちようがありません。)
それで2006年の3月から、地球温暖化について、いろいろと書い
て行くことになったわけですが、
調べれば調べるほど、地球温暖化は、ものすごく深刻な問題である
ことが、思い知らされて行きました。
海面上昇、大雨、洪水、台風の巨大化、熱波、干ばつ、海洋の酸性
化・・・
それらによる、地球の生態系への影響、農業や漁業への影響・・・
これらのことを調べれば調べるほど、「温室効果ガスの削減が急務
の課題である」ことを、心の底から思い知るようになったのです。
そして私が、地球温暖化による「異常気象」に、アンテナを張って
(注目して)いたのも、原因の1つなのかも知れませんが、
2009年ごろ以降から、大雨、洪水、熱波、干ばつ、大雪などの
「異常気象による災害」が、
日本だけでなく、世界各地で多発するようになって来たと、感じて
います。
たしかに、「個々の異常気象」と、地球温暖化との因果関係を直接
に結びつけることは、現時点での科学的知見では、まだできません。
しかしながら、世界の各地で、あまりにも異常気象が多発すれば、
「地球温暖化によって、たしかに異常気象が増えている!」という
ことが、
近い将来(もしかしたら、もう既に)、かならず科学的に証明される
ようになると、私は確信しています。
* * * * *
そして、2011年の3月11日・・・
東京電力の福島第1原発で、「大事故」が起こってしまいました!
大学院生だった頃、宇宙線や加速器を使った研究に従事し、放射
線に関して、まったくの素人ではない私にとって、
原発事故や放射能の問題について、知りうる限り、理解できる限り
の情報を、人々に分かりやすく提供したいという動機が起こりました。
とくに「内部被曝」や「健康への影響」については素人なので、一生
懸命に調べました。
福島第1原発の事故について調べて行くと、ほんとうに「驚愕する
こと」が、たくさん起こっていました!
地震発生から、たったの5時間後に、すでに「メルトダウン」が起こっ
ていたこと。
放射性のキセノン133が、「1100万テラベクレル」も、大気中に
放出されていたこと。
チェルノブイリ原発事故で強制移住の対象となったレベルの、2倍
〜20倍の量の放射性セシウムに汚染された地域にもかかわらず、
そんな場所に、しばらく人が住んでいたこと。
このような、ほんとうに信じられないことばかりが、次々と起こって
いたのです。
しかし、それだけではありません。
東京電力 福島第1原発の事故は、現在においても、けっして終息
していないのです。
除染の問題・・・
高レベル放射性廃棄物の処理の問題・・・
廃炉の問題・・・
これらの問題は、今後ますます、絶対に逃避することの出来ない、
ものすごく深刻な現実として、私たちに突き付けられて行くことになり
ます。
すくなくても私が生きている間、あと数十年くらいは、福島第1原発
事故の問題は、決して終息などしないでしょう。
* * * * *
地球温暖化と、原発問題・・・ これらの両方を解決するためには、
やはり、太陽光や風力、地熱などの「再生可能エネルギー」を、
大々的に普及させるしかありません!
この10年間、いろいろと調べ、文章を書いてきて、そのことに私は、
ますます「確信」を持った次第です。
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