人間のソフトウエアの指標 2003年2月2日 寺岡克哉
前回のエッセイ49でお話しましたように、人間の場合は、「生命のソフトウエア」
が正常であるかどうかが、その人間の生死を決定してしまいます。
さらには、「間違ったソフトウエア」が人類に広がると、人類全体のみならず、
地球の生命全体にとっても、深刻で多大な影響を及ぼしてしまいます。
人類は科学技術を発達させて、巨大な機械や、大量破壊兵器を開発してしまいま
した。つまり、絶大な威力を持つハードウエアを、人類は手にしてしまったのです。
しかし、「ソフトウエア」の方は、まだとても十分であるとは思えません。
絶大な威力を持つハードウエアを、不完全で未熟なソフトウエアで振り回してしまっ
たら、人類は破滅してしまいます。
これからの人類にとって、「正常なソフトウエア」の開発と普及が、重要な課題にな
ることは間違いありません。
ところで、「正常なソフトウエア」とは、一体どのようなものでしょうか?
実は、これが大変に大きな問題です。「正常なソフトウエア」とは、全ての人間の、
全ての意思決定や行動に対して、間違いが起こらないように正しく導くものでなけれ
ばならないからです。
しかしながら、全ての人間が行う、全ての意思決定や行動を、絶対に間違うことな
く導くのは不可能です。
だからここで私が出来ることは、ある人間が、ある意思決定や行動を行う際に、な
るべく間違いが起こらないような、一つの「指標」を提示することだけです。
ここではそれを、「人間のソフトウエアの指標」と呼びたいと思います。
いちばん大ざっぱに言うと、「人間のソフトウエアの指標」とは、「生命の肯定」
です。
人間のソフトウエアを、かなり強引に二つに大別すると、生命を肯定するソフトウ
エアと、生命を否定するソフトウエアに分けられます。
「生命の否定」は、生きることを憎み、人間の存在を憎み、他の生命の存在をも
憎んで、その最終的な目的は「地球の全生命の抹殺」です。だからこれを、「人間
のソフトウエアの指標」にするのは間違いです。
「人間のソフトウエア」の一番大ざっぱな指標としては、まず第一に「生命を肯定
するもの」でなければならないのです。
「生命の肯定」とは、生きることを愛し、人間を愛し、他の生命をも愛して、地球の
生命全体の平和と幸福を志向することです。だから「愛」を、「人間のソフトウエア
の指標」にすれば間違いなさそうです。
ところが「愛」の中には、「生命を否定する愛」と言えるものが存在するので、
大変な注意が必要です。
例えば「強い愛」は、返って死を招くことがあります。強すぎる、感情的な、盲目的
な愛は、生命を否定してしまうことが多々あるのです。
例えば、
嫉妬による殺傷事件や、心中を起こすような恋愛や性愛。
宗教戦争や、自爆テロを起こすような神への愛。
紛争や戦争を起こすような、民族や国家への愛。
等々のものです。これらの盲目的で強すぎる愛を「人間のソフトウエアの指標」に
するのは、明らかに間違いです。
ところで、「自己否定」から脱却するために、一時的に「強い愛」を求めるのは、間
違いではありません。激しい自己否定に取り憑かれていては、まず第一に生命を維
持することが出来ないからです。だから愛が全くないよりは、あった方が良いに決ま
っています。
しかしそれも行き過ぎると、逆に弊害を生むことがあるのです。宗教やナショナリ
ズムが抱える問題も、ここにあります。確かに「強い愛」は、生きる意義や生き甲斐
を、強く実感させてくれます。しかし「強い愛」は、えてして盲目的になってしまうもの
です。それが嵩じて、他人の価値観を認めずに排斥するようになったら、もはや「人
間のソフトウエアの指標」には、絶対になり得ないのです。
だから、「命を懸けて強く愛すること」よりは、「怒らない」、「憎まない」、「妬まな
い」と、言うことの方が、人間のソフトウエアにとって優れた指標です。
これらは少し消極的な感じがしますが、盲目的で強い愛よりは、こちらの方が間違
いがありません。
ところで、「怒らない」、「憎まない」、「妬まない」というのは、愛が存在していないよ
うに思うかも知れません。しかしこれこそが、非常に理性的で完成度の高い、しかも
大変に精神的な努力を必要とする「愛」なのです。
例えば、命を懸けて恋人を強く愛したとします。その恋人のためなら何でもしてき
たし、死をも厭いません。しかしその恋人が自分を裏切り、他の異性と一緒になった
らどうでしょう? 多分、「その恋人を殺して、自分も死んでやる!」と、いうような気
持ちになっても不思議ではありません。
しかしそのような状況になっても、その恋人に対する怒りや憎しみを抑えることの
方が、より「大きな愛」なのです。そしてその方が、恋人を強く愛していた時よりも、
精神的な努力がよほど必要です。
また例えば、愛する人や家族が何者かに殺されたとします。そんな事態に見舞わ
れたら、その犯人を殺してやりたいと思うに違いありません。しかしその怒りや憎し
みを抑えて、理性的な態度を失わないところに、「大いなる愛」が存在するのです。
そして、この種類の愛が存在しなければ、例えばイスラエルとパレスチナなどの民
族紛争の問題は、永久に解決不可能なのです。家族や友人を殺した相手への、怒
りや憎しみを抑えることが出来なければ、平和は絶対にやってこないのです。
だから、「怒らない」、「憎まない」、「妬まない」というのは、非常に消極的なようで
すが、実はとても難しく、精神的な努力が大変に必要な「愛」なのです。
以上の考察から、私は仏教で言うところの「慈悲」の概念が、「人間のソフト
ウエアの指標」として、いちばん間違いがないのではないかと考えています。
まず一人一人が、過度の欲望や執着や競争心を抑えること。そして怒りや憎しみ
や妬みの感情を極力持たないようにし、常に心の平安を保つこと。
そして、人類全体と地球の生命全体に対して、慈しみと哀れみの心(慈悲の心)
を持ち、他人を傷つけたり殺したりしないだけでなく、他の生物に対しても、出来る
だけ傷つけたり殺したりしないようにすること。
これらは、2千年以上も前から言われていたことです。が、しかし、いよいよ人類
全体がまじめに本気になって、これらの言葉に耳を傾けなければならない時代に
なってきたと思います。
人類が絶大な威力のハードウエアを持つに至った現代だからこそ、「怒らない」、
「憎まない」、「妬まない」、「殺さない」、「傷つけない」、「苦しめない」という、一見す
ると消極的な言葉が、逆に重大な意味を持つようになったのです。
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