本能的な愛と理性的な愛   2002年4月6日 寺岡克哉


 世間で一般に「愛」といえば、恋愛や性愛などの、男女の愛を指す場合が多い
と思います。
 しかし「愛」には、そのほかにも、自己愛、母性愛、父性愛、家族愛、隣人愛、
人類愛、慈悲(生きとし生きるもの全てを愛する愛)など、実に多種多様なものが
あります。
 そしてこれらの愛は、「本能的な愛」と「理性的な愛」に分けて考えることが出来
ます。
 本能的な愛とは、例えば、生存本能による自己愛や、性本能による性愛、母性
本能による母性愛などです。そして理性的な愛の代表格は、隣人愛、人類愛、慈
悲です。恋愛や父性愛や家族愛は、その中間ぐらいに位置すると思います。

 もう少し厳密に言うと、人間の愛には「本能的な部分」と「理性的な部分」がある
のです。
 例えば同じ恋愛でも、一目見ただけで異性に惹かれるという本能的な部分と、
相手の人格を尊重し、思いやるという理性的な部分があります。
 そして「性愛」は、ほとんど本能的な部分を占め、「隣人愛」や「慈悲」は、ほとん
ど理性的な部分を占めます。
 しかし話を分かりやすくするために、ここでは「本能的な愛」と「理性的な愛」とに、
単純に分けて考えることにします。

 本能的な愛は、自分の命を守ったり、種族を維持するために、とても大切なもの
です。
 例えば、生存本能による自己愛がなかったら、自分の命が危険にさらされても、
それを避けようとせずに死んでしまいます。また、性愛や母性愛がなかったら、子
供を作ったり、育てたりしようとせず、種が絶滅してしまいます。
 それほどまでに、本能的な愛は大切なものです。しかしながら、これらの愛は動
物にも備わっている愛です。

 一方、理性的な愛は、人間だけが持っている愛です。なぜなら、理性を持つのは
人間だけだからです。動物には理性がありません。だから動物は、理性的な愛を
持つことは不可能です。
 ところで「理性的」という言葉には、なんとなく、物質的、機械的、非人間的で冷た
いイメージを感じます。しかしそれは、ここ100年来の物質文明の影響で歪められ
た、理性のイメージです。
 古来より、「理性は人間と動物を区別するもの」と言われて来ました。だから理性
とは、実は非常に人間的なものなのです。「人間らしさ」や「人間性」を表す言葉な
のです。
 逆に理性を持たない人間は、人間とは言えません。「霊長目ヒト科の動物」とは言
えるかも知れないけれど、「人間」とは言えないのです。
 「人でなし」や「人非人」、「けだもの」などの言葉は、そのことを実に的確に表現し
ています。
 ゆえに理性的な愛は、非常に人間的な愛です。人間性を特徴づける愛です。
人間を人間足らしめている愛なのです。

 ところで本能的な愛は、大変に強い感情ではあります。しかしながら、理性の伴
わない本能的な愛には、いろいろな問題をはらんでいます。
 例えば、本能的な愛は「好きなもの」しか愛することが出来ません。「嫌いなもの」
に対しては、容赦のない生理的な嫌悪感をぶつけてしまいます。そして差別や偏
見の遠因になっています。
 また本能的な愛は、ややもすると、怒りや憎しみ、妬み、嫉妬などに、すぐに変
わってしまいます。「可愛さあまって憎さが百倍」という言葉は、それを良く表して
います。
 そしてまた、理性の伴わない本能的な愛には、「愛しているから殺したんだ!」
などという、非理性的な現象も起こり得ます。

 理性的な愛は、「感情の強さ」としては弱いものです。感情の強さでは、本能的
な愛に比べるべくもありません。これは、理性は「感情ではない」ので当然のこと
なのです。
 しかし理性的な愛は、大変に強いものです。理性的な愛は、本能的な愛を
凌駕します。

 なぜなら、理性は本能を凌駕するからです。
 人間は、理性によって本能を乗り越えることで進歩して来ました。例えば動物は、
火を怖がる本能のために、火を使うことは出来ません。しかし人間は、理性によっ
て火を怖がる本能を乗り越え、火を使いこなせるようになったのです。
 人間はまた、自己の本能的な欲求を理性によって抑制し、高度な社会性を構築
することによって、他の動物にはおよびもつかない進歩と発展を実現しました。
 このように、人間の理性は本能よりも強いのです。逆に、理性によって本能を適
度に抑制できる人間が、「人間である」と言えるのです。霊長目ヒト科の動物では
ない、「人間」であると言えるのです。
 だから、「人間」の理性的な愛は、本能的な愛を凌駕する、大変に強いものなの
です。
 このことは、自己の生存本能を乗り越えて自分の命を危険にさらし、隣人愛や人
類愛を貫き通した、世界中の多くの人達によって既に証明済みです。
 自分の命を犠牲にするほどの隣人愛や人類愛は、いちばん極端な例であり、誰
でも実行できるという訳ではありません。また、ただ単に自分の命を犠牲にするの
が偉いなどと言っているのでもありません。
 しかしながら、人間にはそのような可能性までをも秘めているのです。人間の理
性的な愛は、自己の生存本能をも凌駕することが実際にあるのです。

 理性的な愛は、何も努力しないで得られるものではありません。長い年月をか
けた理性と本能との摩擦により、理性が鍛えられて、理性的な愛は得られるの
です。
 しかも理性は、正しく鍛えられなければなりません。「歪んだ理性」ではなく、「正
しい理性」を育成しなければならないのです。
 例えば、「歪んだ理性」によって自己否定に取り憑かれた場合、最悪の場合は
自殺に及んだりします。自殺の現象も、理性の力が生存本能を凌駕しているため
に起こっているのです。
 理性的な愛を獲得するためには、「正しい理性」を育成し、強化していくことが、
どうしても必要です。これはとても難しいことであり、大変に時間もかかることです。
 しかし全ての人間は、これに取り組まなければなりません。なぜなら、理性的な
愛の獲得は、霊長目ヒト科という動物から、「人間」に成長する作業だからです。

 理性的な愛は、最も人間らしい愛です。人間だけが理性を持つからです。「正し
い理性」のもとに、理性的な愛を自分の心の中に発生させ、それを増大し、発展
させて行くところに、「人間」としての成長と進歩があるのです。



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