自我意識の波及効果も「生命」である
2003年1月5日 寺岡克哉
あなたや私が死ねば、あなたや私の「自我意識」は消滅してしまいます。しかし、
あなたや私の「自我意識の波及効果」は、「人類の集合意識」の中で永遠に存在し
続けます。それは前回のエッセイ45でお話しました。
私は、この「自我意識の波及効果」も、「生命」と考えて良いのではないかと
思っています。
もしも、この主張が認められるならば、あなたや私の生命は、あなたや私が
死んでも永遠に生き続けることになります。
ところで、「自我意識の波及効果は生命である!」と、主張するためには、生命の
概念を拡張しなければなりません。それが可能かどうかを、以下に考えて行きたい
と思います。
まず最初に、「生命が存在する」とか、「生きている」といえる条件を考えてみます。
そうすると、
(1)肉体が生存していること。
(2)自我意識が存在すること。
の二つが挙げられます。
(1)は、肉体が生きていることです。
呼吸し、心臓が動き、体内を血液が流れ、体温が保たれている状態です。眠って
いないときは、運動もします。
これが、「生命が存在する」とか、「生きている」といえる第一の条件です。
(2)は、自我意識が存在している状態。つまり目が覚めていて、意識のある状態
のことです。
この(2)の条件も、ごく当たり前のように感じます。しかし(1)に比べると、少し考
察が必要になって来ます。
例えば、「眠っているとき」は、自我意識が存在しなくても「死んでいる」とは言いま
せん。
しかしこれは、自我意識を喪失している状態が一時的なものなので、そう言ってい
るに過ぎません。睡眠を十分にとれば、必ず目が覚めることが分かっているので、
眠っている状態を「死」とは言わないのです。
しかし、自我意識の回復が永久に見込めない場合は、「生きている」とは言えなく
なって来ます。
その例として、「脳死」の場合が考えられます。
脳死を、「人の死」とするのかどうかについては、まだ異論があるかも知れません。
しかし少なくとも、「人として生きている」とは言えない状態です。
肉体の細胞が生きていても、自我意識を永久に喪失すれば、「生きている」とは
言えないのです。
ところで植物の場合は、自我意識が存在しなくても「生きている」と言えます。しか
し人間の場合は、自我意識が存在しないと「生きている」とは言えません。
これは、「植物の生命」にくらべて「人間の生命」の方が、生命概念が拡張されて
いることを意味します。
* * * * *
次に、「人間の生命」を考える上で大切な、「自我意識」について、もう少し考察し
てみたいと思います。
まず、自分の自我意識の中身について考えて見ます。そうすると、自分の自我意
識の中には、「他人の自我意識の影響」が多分に存在していることが分かります。
例えば、私の自我意識は、そのほとんどが他人の自我意識の影響によって作ら
れたと言っても過言ではありません。
親、兄弟、友人、学校教育、テレビ、新聞、書籍、等々。これら全てが、私の自我
意識の形成に関わっているからです。
つまり「人間の自我意識」は、他の人間の自我意識の影響を受けて作られる
のです。
それは、オオカミなどに育てられた人間の例を見れば分かります。赤ん坊の時か
ら人間と隔離されて育てられれば、「動物の自我意識」は持てるかも知れないけれ
ど、「人間の自我意識」は育つはずがありません。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの、感覚器官による認識だけでは、「人間の
自我意識」は形成されないのです。
人間は、「人間の自我意識」が存在しなければ、「人間として生きている」とは言え
ません。
ただ単に「動物の自我意識」しか持たず、言語も文字も、人間らしい思考能力も持
たなければ、「人間として生きている」とは言えないのです。
これは、植物は自我意識が存在しなくても「生きている」と言えるけれど、動物は
自我意識が存在しないと「生きている」とは言えないのに対応します。
動物は、「人間の自我意識」を持たなくても「生きている」と言えます。しかし人間
は、「人間の自我意識」を持たなければ、「人間として生きている」とは言えません。
このように、植物、動物、人間という順に、生命の概念が拡張されているのです。
高度な「人間の自我意識」は、人間だけが持っている、「人間の生命」です。
そして「人間の自我意識」、つまり「人間の生命」は、他の人間の「自我意識の波
及効果」によって作られています。
ゆえに、人間の場合においては、「自我意識の波及効果も生命である!」と
言えるのです。
しかしこれは、別に変わった考え方ではありません。昔から普通に認識されてい
た生命の概念です。
例えば、
「あの人の精神が、我々の中に生きている。」
「あの人の意志が、我々の中に生きている。」
「あの人の魂が、我々の中に生きている。」
等々、これらの言葉は、他人の自我意識の波及効果を、「自分の生命の一部」だ
とみなしている言葉です。また、
「私が死んでも、私はみんなの中で生き続ける。」
という言葉は、他人の自我意識の中に存在する「自分の自我意識の波及効果」も、
「自分の生命の一部」だとみなしている言葉です。
「自分の自我意識の中に、他人の自我意識の波及効果が存在すること」を、本当
に理解すれば、
「自分の自我意識の波及効果も、他人の自我意識の中に存在し続けること」が、
理解できます。つまり、
「自分の生命の中に、他人の生命が生きていること」を、心の底から納得すれば、
「自分の生命も、他人の生命の中で生き続けること」に、確信が持てるのです。
「人類の集合意識」の中で存在し続ける、「自我意識の波及効果」は、人間だ
けが持つことの出来る、「不死の生命」なのです。
目次にもどる