自我意識の消滅から人間を救うもの

                                 2002年12月15日 寺岡克哉


 あなたや私が「自我意識を持ちえたこと」は、まさに奇跡的な出来事です。
 なぜなら、「ビッグバン」によってこの宇宙が誕生して以来、色々な偶然が無限に
重なって、あなたや私の「自我意識」が今ここに存在しているからです。
 そしてこの先、何百億人の人間が生まれよとも、あなたや私の自我意識は二度
と生じることはありません。
 それどころか、この宇宙が誕生したのと同じようなビッグバンを、何千回、何万回
くり返しても、あなたや私の自我意識は二度と生じないと思います。
 それほどまでに、我々個々人の「自我意識」は貴いものです。
 ところが、そのように大変に貴いものでありながら、「死」によって自我意識
は永遠に消滅してしまいます。生命にはどうしても、このような耐え難い矛盾
が存在します。


 ところで、エッセイ2でお話しましたように、私が死んで自我意識が消滅しても、
私にはそれが認識できません。だから「自我意識の消滅」は、別にどうということは
ないはずです。
 事実、毎日の睡眠や、手術の全身麻酔などで自我意識が消滅しても、我々はそ
れを「耐え難いもの」とは感じません。だから「自我意識の消滅そのもの」は、別に
苦しみでも何でもないと思います。

 しかしそれでも、現に生きている人間は、死を耐え難いものとして感じます。
 たぶんこの心情は、「生存本能」のために起こっているのだと思います。生物は、
「死」を嫌なもの、恐ろしいもの、避けるべきものとして、「本能的」に感じるように作
られています。そうしなければ生物は、わざわざ苦労をしてまで生きようとしないか
らです。
 そしてこれは、人間も例外ではありません。だから現に生きている人間は、自我
意識の消滅、つまり「死」を、とても耐え難いものとして強く感じるのです。

 天国や地獄などの「死後の世界」を創作し、死んでもなお、自我意識が継続する
かのような話を作り出したのも、「死への耐え難さ」からです。
 洋の東西を問わず、世界のあらゆる所で「死後の世界の話」が作り出されたの
も、至極もっともなことだと思います。それは「生存本能」という、全人類に共通した
欲求がその根底にあるからです。
 「神や仏の言葉を守り、天国へ行くために現世を正しく生きよう!」というのが、宗
教に共通した教えです。しかしこれは、死への耐え難さを克服し、生きる意義を得
て、しかも悪をなさずに正しく生きるためには、たいへん理に適った処方です。もし
そうでなければ、宗教が何千年も続く訳がありません。
 (ところで宗教には、盲目的な信仰による危険性が存在します。しかしそれについ
ては今まで何度もお話したので、ここでは繰り返しません。)

 しかしながら、「宗教」を捨て去った現代人の多くにとって、神仏や死後の世界を
心から信じるのには、もはや無理があります。
 現代は既に、「死ねば自我意識が消滅してしまうこと」を、素直に認めなければな
らない時代になっています。そのことは、多くの人が頭では納得していると思います。
 しかしそれだけでは駄目なのです。大変に深刻な「生命の否定」に陥ってしまうか
らです。
 「死による自我意識の消滅」を認めると(つまり死後の世界を認めないと)、死ねば
全てが「無」になってしまいます。そうすると結局、「死んで全てが無になるため」に、
我々は生きていることになります。ゆえに、「生きることの全てが無意味である!」と
結論されてしまうのです。
 「生きていても、結局は無意味だ!」
 「生きる目的や、生きる意味など存在するはずがない!」
 「生きている内に、欲望や快楽をやりたい放題に満たせばそれでいい!」
というような、刹那的で投げやりな現代の風潮は、「宗教を捨て去った代償」とでも
いうかのように、現代社会を蝕んでいます。

 これを打開するためには、「死んで自我意識が消滅しても、全てが無意味になる
訳ではない!」と、いうようにしなければなりません。
 もう少し踏み込んで言えば、「自分の自我意識が消滅しても、それでもなお、自分
は何らかの形で存在し続ける!」と、いうようにするのです。
 つまり、「何か不滅のものに自己を同化すること」が必要になって来ます。
 自分が死んで自我意識が消滅しても、それでもなお消滅することのない、「何か
不滅のもの」に自己を組み入れるのです。
 つまり、
 「私は、不滅なものの一部である。」
 「そして私は、その不滅なもののために生きている。」
 「私はいずれ死んでしまうけれど、しかし私が死んでもなお、私はその不滅なもの
の中で生き続ける。」
 「死ねば消滅してしまう私の自我意識だけが、私の存在の全てではないのだ!」
と、いうようにするのです。そうすれば、「自我意識の消滅による自己存在の無意味
さ」から救われます。

 人間は、自分の自我意識がいずれ死によって消滅してしまうことを、まさしくその
自我意識によって認識している生物です。
 人間は自我意識を持つからこそ、何か永遠のもの、何か不滅のものに自己を同
化しなければ、「耐え難いやりきれなさ」を感じるのです。
 私は以上の観点から、生命の意義(エッセイ11)や、生命の仕事(エッセイ22)と
いった概念をお話して来ました。つまり「大生命」の一部として、自己を同化させる
という方法です。

 ところで私は、「人類の集団意識」というものも、その候補の一つになり得るのでは
ないかと考えています。
 「人類の集団意識」とは、全人類の自我意識の総体です。
 我々個々の自我意識は、色々な関係で複雑に作用しあっています。そして全ての
人間の自我意識は、何らかの関係で一つにつながっています。(最近は高度情報
化の時代になり、その傾向がますます強くなっています。)
 つまり、「大生命」と「個の生命」との対応関係を、「人類の集団意識」と「自我意識」
との対応関係に応用したものです。
 我々個々の人間の自我意識は、「人類の集団意識」の一部です。
 個々の自我意識は消滅しても、「人類の集団意識」は、人類が存在する限り「不滅
のもの」です。
 ある人が死に、その人の自我意識が消滅してしまっても、その影響力や波及効果
は、「人類の集団意識」の中で生き続けます。
 (例えば、釈迦やキリストの自我意識の影響力や波及効果は、二千年以上経った
現在でも生き続けています。)
 このような意味で「人類の集団意識」は、大生命と同じように、自己を同化させる候
補になると思うのです。

 自我意識の消滅(死)の耐え難さから人間を救うものは、「死後の世界を信
じること」と、「不滅なものへの自己同化」の二つが考えられます。
 私は後者を追及しており、「大生命」の生命観はその一つです。
 同様の観点から、「人類の集団意識」もその候補の一つになり得ると考えて
います。


 「人類の集団意識」については、これから追々と述べて行きたいと思います。



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