自我意識について 2002年12月8日 寺岡克哉
私には、私の「自我意識」が存在します。
自我意識とは、「自分が生きていること」や、「自分が存在していること」を認識す
る意識です。
自分と外界を区別し、「自分は一人しか存在しない!」と言う、「自己の独自性」を
認識する意識です。
昨日の自分も、今日の自分も、一年前の自分も、常に同じ自分であるという、「自
己の同一性」を認識する意識です。
自分の欲求や希望、目標などを自らの意思で実現させようとする、「能動的」な思
考や行動を生じさせる意識です。
つまり「自我意識」とは、私が、私を、「私」と感じる意識です。
この、私の「自我意識」は、私だけにしか存在しません。皆さんもそうだと思います。
もしも私の「自我意識」が、私以外の人間にも存在すれば、私は常に自分の体が
二つ以上存在するように感じるはずだから、すぐに分かります。
だから私の「自我意識」が、私だけにしか存在しないのは自明の事実です。
しかし、この「自明の事実」が、私にはどうにも理解のできない不思議な現象なので
す。
なぜ、私の自我意識は私に存在するのか?
なぜ、この時代に、この場所で、この家族の下に生まれた人間に、私の「自我意識」
が存在するのか?
地球には60億もの人間がいます。それなのに、なぜ私の自我意識は60億の中の
一人を選び、この私に存在するのか?
難民の子どもに生まれ、すぐに餓死する人間に、私の自我意識が存在してもおかし
くはなかった。
妊娠中絶や流産で、自我意識を持ち得る前に死んでもおかしくはなかった。
あるいは、お金持ちや上流階級の家庭に生まれた人間に、私の自我意識が存在
してもおかしくはなかった。
また、百年前、千年前、一万年前の人間に、私の自我意識が存在してもおかしくは
なかった。
なぜ、今のこの私なのか?
これが、どうにも理解のできない謎なのです。
* * * * *
私が生まれるとき、父親の何億もの精子の内、一つ隣の別の精子が受精すれば、
私の自我意識は存在しませんでした。だから、違う日に行われた交接によって受精
しても、私の自我意識は存在できなかったのです。それは兄弟の場合を考えれば分
かります。
さらには、もしも私が一卵性の双生児(同じ受精卵から生まれた双子で、全く同じ
DNAを持つ)であっても、私の双子の兄弟には、私の「自我意識」は存在しません。
彼に存在するのは、彼の「自我意識」です。
だから私のクローン人間を作っても、その人間には、私の「自我意識」は存在しま
せん。彼に存在するのは、彼の「自我意識」です。
DNAが全く同じで、体重も、細胞の数も、原子の数も、私と全く同じ人間を複製し
ても、その人間には、私の「自我意識」は存在しないのです。
そしてこれは、もしも、私と記憶や考え方まで全く同じ人間が複製できたとしても、
同様に言えることです。私の「自我意識」は、彼には存在しません。
なぜなら、もしもそのような「複製人間」が出来たとしても、私の体が常に二つ存在
するように、私は感じることが出来ないからです。
例えば、私が日本にいて、彼が外国へ旅行をしたとします。私が日本に居ながら
にして、外国にいる彼が見たもの聞いたもの、あるいは彼の思考や認識が、同時
に私にも認識できるのであれば、彼に存在するのは、私の「自我意識」です。
しかし、そんなことは起こり得ません。私は私、彼は彼です。
つまり、物質的に(さらには記憶や思考様式までも)私と全く同じ人間が複製でき
ても、その「複製人間」には、私の自我意識は存在しないのです。
しかしながら面白いことに、私の体を構成している物質は、一年も経てば全て入
れ替わっているそうです。
生物は、食物として新しい物質を体内に取り入れ、古くなった体の組織を常に作
り替えています。
例えば、髪が伸びれば散髪し、爪が伸びれば切り、皮膚の組織が古くなれば垢
となって落ちて行きます。このように体の組織は、常に新しいものに作り替えられて
いるのです。
そしてこれは、体の全体にも言えることで、一年も経てば私の体を構成している
全ての原子は、同じ種類の別の原子に全て置き換わっているそうです。
つまり一年も経てば、「物質としての私」は、全く別の人間になっています。
しかし、私の「自我意識」は、相変わらず「同じ私」だと認識しているのです。
以上から、私と全く同じ物質構造のクローン人間、さらには、記憶や思考様式まで
私と全く同じの「複製人間」が出来たとしても、その人間には、私の「自我意識」は存
在しません。彼に存在するのは、彼の「自我意識」です。
ところが一方、私の体は、一年も経てば全て別の体に交換されているのに、私の
「自我意識」は消滅しないのです。
別の言い方をすればこうなります。例えば、いきなり私の複製人間を作り、その後
に突然に私を殺した場合は、私の自我意識の消滅、つまり「死」が存在します。
しかし、一年かけて徐々に自分を殺し、新しい複製人間に徐々に生まれ変わった
場合には、私の自我意識の消滅、つまり「死」が存在しないのです。
不思議な気がしますが、上記の考察は正しいと思います。「自我意識」とは、そう
いう性質のものだとしか、言いようがありません。
* * * * *
ところで・・・
あなたや私の「自我意識」は、唯一無二のもので、大変に貴重なものです。
なぜなら、今後、地球に何百億人の人間が生まれようとも、あなたや私の「自我意
識」は二度と生じることがないからです。
それどころか、今後、「ビッグバン」を何万回くり返そうとも、あなたや私の「自我意
識」は二度と生じることはありません。そのことは明白です。
なぜなら、過去に何回のビッグバンが存在したのか知りませんが(過去には無限
の時間が存在するから、無限回のビッグバンが存在してもおかしくはない)、もしも、
そのいずれかに私の自我意識が発生していれば、今の私がそれを記憶しているは
ずだからです。
しかし私には(他の多くの人にとってもそうだと思いますが)、そのような記憶が一切
ありません。だから未来においても、「あなたや私の自我意識は二度と生じることが
ない!」と、考えるのが妥当です。
なぜ私の自我意識が、「現代の日本に生まれたこの私」に存在するのかは、
大いなる謎です。
しかし、我々個々人の自我意識が、「唯一無二のもの」であることは確かで
す。
この先、何千回、何万回のビッグバンをくり返そうとも、あなたや私の自我
意識が生じることは、二度とありません。
それほどまでに、我々個々人の「自我意識」は貴いものです。
だから、無益に人を殺してはならないのです。
だから、安易に自殺をしてはならないのです。
人の命を尊重しなければならない理由の一つは、ここにあると思うのです。
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