大生命と神との違い 2002年11月17日 寺岡克哉
大生命は、地球の生命全体で構成された、一つの生命維持システムです。
だから大生命には、地球の生命全体を生かし、はぐくみ、守るという、作用や働
きが存在します。その作用や働きが「大愛」です。
「大愛」が存在しなければ、酸素も食料も存在しません。だから全ての生命は、
「大愛」に抱かれ、生かされているのです。
この地球に「生命」が発生して以来、大生命は40億年もの長い間、「大愛」という
限りなく大きな愛を、全ての生物に、永続的に与え続けて来ました。
つまり大生命は、「無限の愛の供給源」であると言えます。
そしてまた、エッセイ1でお話しましたように、大生命は、「自己存在の拠り所」
でもあります。
以上のように、大生命には、「無限の愛の供給源」と「自己存在の拠り所」という
「機能」が存在しています。
しかしながら、大生命のこの機能だけに目がいってしてしまうと、「大生命」と「神」
とを混同してしまいます。
なぜなら、「無限の愛の供給源」や「自己存在の拠り所」という機能は、「神の機
能」そのものだからです。
以上の意味では、大生命と神は、「同じ機能」を持っていると言えます。
だから、神と大生命を混同してしまうことを、私は大変に恐れています。
それでこのエッセイで、「大生命と神の違い」を、もっと詳しく説明したいと思い立
ちました。
大生命と神との最も重要な違いは、「神は実在しないが、大生命は実在する」
と、いうことです。
大生命は、「地球の全生物を含めた生態系」であり、「実在する生命」のことで
す。そして、我々自身も大生命の一部です。
この「実在する」ということが、非常に重要なことなのです。実在するものは、
信仰のあるなしに拘らず、存在するからです。
例えば「神」は、観念上の「実在しないもの」です。神は、見ることも触ることも出来
ません。だから神は、それを信仰しない者には存在しないのです。
しかし例えば、科学技術などの「実在するもの」は、その信仰のあるなしに拘らず、
確実に存在します。
例えば千年前の人間に、テレビや飛行機などの話を聞かせても、絶対に信じない
と思います。しかし、もしもテレビや飛行機を実際に見せることが出来たならば、一
瞬にしてその存在を認めることでしょう。
科学を信じても信じなくても、テレビや飛行機は存在します。神と科学の差は、この
「実在性」にあるのです。だから神の権威は、科学の前に屈服せざるおえなくなって
しまったのです。
神は、「実在しないもの」です。だから「神を存在させるため」には、多くの人々に
「神への信仰」を強要しなければなりません。そこに大きな危険があるのです。
「神への盲目的な信仰」は、宗教戦争や魔女狩り、思想弾圧などの、大きな悲劇
を生んでしまったからです。だから現代の常識人にとって、神を盲目的に信仰する
ことなど、もはや出来ないのです。
ところが一方、大生命は「実在するもの」なので、理性による認識が可能です。だ
から大生命は、盲目的な信仰を強要する必要がありません。
例えば「神の愛」は、神の存在を一心に信じ、誠心誠意に神の寵愛を求めること
によってしか、得ることが出来ません。
しかし大生命の「大愛」は、酸素や食料を供給する働き、地球環境を生物に適す
るように整える働き、生物同士が協力し合い、助け合う働き、等々の「生物が実際
に行う働き」として実在します。
だから、大生命を信じようが信じまいが、大愛は既に、我々に与えられてい
るのです。
我々は、大生命を無理に信仰する必要はありません。正常な理性によって、大愛
の存在を、ただ認識しさえすれば良いのです。
大生命と神との、もう一つの重要な違いは、大生命は、あくまでも自然の法則
と生命の法則に従っていることです。大生命には、「人間の自分勝手な恣意」が
入り込みません。
しかし神は、科学的な事実を否定してしまうことがあります。事実、神は地動説や
進化論を一度否定しました。これは「神の概念」に、自然法則を無視した「人間の自
分勝手な恣意」が入り込んでいるからです。
ところが大生命は、科学的な事実を絶対に否定することがありません。大生命
は、自然の法則と生命の法則に従って活動する、「実在する生命」そのものだから
です。
ところで、神はえてして、人を殺すことさえも命令してしまいます。事実、神のため
に人を殺す人間が、現代においても後を絶ちません。
しかし大生命は、絶対に、人を殺す意志を持ちません。大生命の意志は、地球の
生命全体の存続と発展を志向するからです。だから大生命のために人を殺すこと
など、絶対にありえません。
(しかし、人類が大生命に裁かれる可能性はあります。例えば、人類があまりに
も地球の生態系を破壊し尽くせば、まず間違いなく、人類はそのしっぺがえしを食
らいます。)
大生命の概念は、あくまでも生物の存在と、その作用や働きに限定していま
す。だから大生命は、人間の自分勝手な恣意や空想を排斥し、実在性と客観
性が保証されているのです。
神の場合は、人間の自分勝手な恣意が暴走すれば、「何でもあり」になってしまい
ます。科学的な事実を否定し、人を殺すことさえも命令してしまいます。そこが神の
恐ろしいところであり、信用の置けないところなのです。
最後に、大生命と「祈り」の関係について考えてみたいと思います。
私は、大生命に対して、「祈り」を捧げても構わないと思います。
しかし、私の言う「祈り」とは、「大生命に対して感謝の念を起こし、大愛の
存在を実感する」という意味です。
(私は既成宗教の信者になったことはありませんから、私の言う「祈り」とは、一般
の宗教で行われている「祈り」とは違うかも知れません。)
例えば、大生命に対して、怪我や病気が直るようにとか、お金が儲かるようにと
か、奇跡が起こりますようにとか、そのようなことを祈っても意味はありません。
大生命の働きや作用は、あくまでも自然の法則と生命の法則に従うものであり、
それを超越した「奇跡」など、起こせるはずがないからです。
しかし大生命に対して、「限りない感謝の気持ち」を持つことは、別に変なことでは
ありません。
呼吸が出来ること、日々の糧が与えられていることを、大生命に感謝するのは変
なことではありません。
「自分が生かされていること」を大生命に感謝するのは、理性による判断に照ら
し合わせても、別に変なことではないのです。
大生命の「大愛」を感じ取り、それに感謝すること。
大生命の「限りなく大きな愛」に、自分が抱かれているのを実感すること。
つまり、誤解を恐れずに言えば、「大生命に祈りを捧げること」は、「自己肯定」や
「生命の肯定」にとって必要な要素だと、私は考えています。
大生命は、無限の愛の供給源です。
大生命は、自己存在の拠り所です。
しかし大生命は、神とは違い、「実在するもの」です。
大生命は、科学的な事実を否定しません。人殺しも命令しません。
だから我々は、安心して、大生命に身をまかせることが出来るのです。
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