「求める愛」を満たしてくれるもの
2002年11月10日 寺岡克哉
「与える愛」は、愛と幸福を最大限に増大させます。
しかし人間には、「求める愛」の欲求が存在することも、確かな事実です。
人間には、
「限りなく大きな愛で愛されたい!」
「永遠に愛されたい!」
「完全に受け入れてもらいたい!」
という、大変に強い欲求が確かに存在し、それを否定してしまうことは出来ません。
根源的な苦から生じる無限の欲望を、「求める愛」に向けてしまい、「愛の貪り」
に陥ってしまうことがあるのも、人間であれば仕方のないことです。
そしてまた、「求める愛」の対象が全く存在しないというのも、無味乾燥で大変に
さみしい話です。
しかし「人間」に対して、無限の愛を求めてはなりません!
その人間の、たいへんに大きな負担になってしまうからです。自分の親や子供、
友人、恋人、あるいは妻や夫といえども、愛を無限に求めてはならないのです。
そんなことをすれば、反対に愛を失うことになり、人間関係が壊れてしまいます。
例えば・・・
自分の妻や夫に対して、「自分だけを無限に愛してほしい!」と、強く望んでそれ
を強要したり・・・
自分の親や子供に対して、「自分だけが無限に愛されて当然だ!」などという、思
い上がった心を起こしてしまったり・・・
そんなことをすれば、夫婦関係や親子関係がギクシャクしてしまうのも当然です。
確かに、「原理的」には、愛を無限に与えることが可能です。
しかし、「現実的」には、愛を無限に与えることは不可能です。
それは、自分のことを考えてみると良く分かります。あなたは、他人に無限の愛
を与えることが出来るでしょうか? とても出来ないと思います。私もそうです。
普通の人間であれば、それが当り前です。それは何も、少しも悪いことではありま
せん。
「現実に生きている人間」には、無限に愛を与えることは不可能なのです。
ゆえに、他人に対して、無限に愛を貪ってはならないのです。
(しかしながらエッセイ37でお話したように、「愛を与えること」によって、無限の欲
望を常に満たし続けることは可能です。自分の欲求の大きさに応じて、愛を与え続
けることは可能だからです。しかし自分の欲求と、能力の限界をはるかに超えて、
「無限」に愛を与えることは不可能なのです。)
「愛を無限に与えることが出来るもの」
「愛を無限に求めて良いもの」
とは、例えば、「釈迦の慈悲」や「キリストの愛」などのようなものです。
これらの愛は、現代においても、多くの人々に生きる指針と生きる希望を与え続け
ています。つまり生命力というか、生きる力を、現在も与え続けているのです。
釈迦やキリストは、死してなお2千年以上にもわたって、世界中の人々に愛を与え
続けています。
「愛を無限に与えられるもの」とは、例えばこのようなものなのです。
もちろん、「現実に生きた人間、歴史上に実在した人物」としての、釈迦やキリスト
には、愛を無限に与えることなど不可能だったと思います。(本人たちには、そのよ
うな強い意志があったと思いますが。)
だから、
「愛を無限に与えることが出来るもの」
「愛を無限に求めて良いもの」
とは、生きて現に実在する人間ではなく、死んでもなお愛を与え続けることの
出来る、「生きた人間を超越したもの」なのです。
ところで、「愛を与えるため」には、その前にまず、「愛を持って」いなければなりま
せん。「持っていないもの」を、与えることは出来ないからです。
つまり、他人に愛を与えるためには、その前にまず、「自己愛」を持っていなけれ
ばならないのです。
そして、自己愛を持つためには、その前にまず、「何かの存在」から愛を与えられ
ていることが必要です。何者からも愛されないと、人間は自己否定に陥ってしまう
からです。
つまり、「何かの存在」から愛を与えられて初めて、人間は自己愛を持つことが出
来ます。そして、自己愛を持つことが出来て初めて、他人に愛を与えることが可能
になるのです。
これは、エッセイ18からエッセイ37まで、一貫しているテーマです。
この、「何かの存在」に相当するものとして、昔の人は「神」を考え出したのです。
我々を、無限に大きな愛で包み込んでくれるもの。
我々に、無限に愛を与えてくれるもの。
つまり、「無限の愛の供給源」として「神」を想定し、それを信仰したのです。
「神の愛」が提唱された当初、つまりキリストが実際に説いた「神の愛」は、自然
の摂理と生命の摂理に適った、合理的なものでした。
キリストは、人間を理不尽に縛りつけている、非合理的な数々の掟(律法)に対
し、「神と隣人への愛」を根拠に異議を唱えたのです。
しかし「神」の概念は、後世の人間の勝手な思惑によって、歪められてしま
いました。
宗教戦争やテロリズムを助長する「神」。
金儲けの道具にされ、人から金を巻き上げる「神」。
魔女狩りや、残虐なリンチを引き起こす「神」。
新しい思想を弾圧する「神」。
科学的事実の存在を否定する「神」。
これらのものは、後世の人間の勝手な思惑によって、ねじ曲げられた「神」です。
だから現代においては、「神」を安易に信仰することが、あまりにも危険になって
しまいました。それは既に、人類の経験(人類の歴史)によって、証明されていま
す。
それで私は、「神の愛」に代わるものとして、大生命の「大愛」を提唱して
いるのです。
大生命の「大愛」とは、
大生命が、地球の生命全体を生かそうとする愛。
大生命が、生命全体の幸福を望む愛。
大生命が、40億年もの長い間、地球の生命を育んできた愛。
生物同士の中に存在する、協力や助け合い、愛情の全て。
この生命界に充満している愛。
です。
大生命の「大愛」は、自然の摂理と生命の摂理に根ざしています。だから、人間
の勝手な思惑によって、ねじ曲げられることがありません。
「大愛の実感」を、かなり強引にイメージすると、
暖かく安らかな、愛と光のような・・・
小春日和で、天気が良くて暖かな、空気の澄んだ野原のような・・・
空気のように、常に自分を暖かく包んでくれていて、呼吸をすると一緒に吸い込
んでしまえそうな・・・
天にも地にも、あらゆる場所に存在しているような・・・
植物にも動物にも、ありとあらゆる生物の中に、その片鱗が見え隠れしている
ような・・・
という、そんな感じです。
このような想像をあまりにも広げ過ぎると、「恣意的な神」になってしまいますの
で注意が必要です。しかし私は、「大愛」について、このようなイメージを持ってい
ます。
大生命は、限りなく大きな愛で包み込んでくれます。
大生命は、愛を無限に与えてくれます。
大生命には、愛を無限に求めて良いのです!
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