無限の欲望を「愛の増大」に向ける
2002年11月3日 寺岡克哉
「根源的な苦」によって生じる「無限の欲望」を、「与える愛」に向けることが
出来れば、愛と幸福を無限に増大させることが可能になります。
もちろん、人間には肉体的な限界や精神的な限界が存在しますから、厳密には
「無限」ではありません。しかし原理的には、この方法によって、愛と幸福を限りな
く増大させることが出来るのです。
ところで、「根源的な苦」とは、どんなに欲望が満たされても、何か訳の分からない
漠然とした不安や空しさ、焦燥などを感じてしまう・・・と、いうものでした。(根源的
な苦については、もう随分前にお話したので、既に忘れている方が多いかも知れま
せん。詳しくは、エッセイ16を参照して下さい。)
「根源的な苦」は、あらゆる種類のどんな欲望を満たしても、絶対に消滅すること
がありません。なぜなら、ある一つの欲望を満たした途端に、空しさや不安や焦燥
が新しく生じるからです。
つまり、どんなに欲望を満たしても、新しく根源的な苦が生じるだけです。だから、
根源的な苦を永遠に誤魔化し続けるためには、欲望をどんどんエスカレートさせる
しか手が無いのです。そのため、根源的な苦は「無限の欲望」の原因となっている
のでした。
一般に、人間の欲望の対象となる典型的なものは、金、地位、名誉、権力などで
す。しかし、それらは「有限」なものなので、これらによって「無限」の欲望を満たす
ことは絶対に不可能です。
ところが、愛は「無限に与えること」が可能です。だから、「愛を与えること」
によって、無限の欲望を満たすことが出来るのです!
前のエッセイ35、36でお話しましたように、「与える愛」が愛と幸福の本質でした。
つまり、「愛を与える」という行為そのものが、そのまま直ちに、愛と幸福を増大させ
る行為そのものでした。
だから、根源的な苦によって生じる無限の欲望を、「愛を与えること」に向ければ、
愛と幸福を限りなく増大させることが出来るのです。
無限の欲望が求めるままに、愛を与えて、与えて、与え続けるのです!
そうすれば、それに応じて、愛と幸福がどんどん増大して行きます。
愛は無限に与えることが可能ですから、「愛を与えること」によって、無限に幸福に
なることが出来るのです。
愛を「常に与え続けること」によって、無限の欲望を「常に満たし続けること」
が可能になるのです。
これは、大変に画期的な方法です!
エッセイ16でお話しましたが、根源的な苦によって生じる無限の欲望は、人類の
無限の発展の原動力でもありました。つまり、この無限の発展の原動力を、愛と幸
福の増大に向けるのです。
このようにすると、根源的な苦によって鬱積するエネルギーを、思う存分に開放す
ることが出来ます。もう、あの胸の詰まるような息苦しさを感じなくて済むのです。
空しさや不安、焦燥などが生じたら、「愛を与えること」に意識を集中するのです。
不安や焦燥を心の中に溜め込まずに、そのエネルギーを使って、周囲の人に愛
を与えて行くのです。そうすれば、自分の心も愛で満たされて、空しさや不安が消滅
します。
このように、「与える愛」、つまり「見返りを求めない無償の隣人愛」は、無限の欲
望を無限の幸福で満たすことの出来る、画期的な方法なのです。
「与える愛」は、決して見返りを求めません。しかし不思議なことに、ちゃんと自分
の利益にもなっているのです。
利他的な行為は、利己的な行為でもあるのです。生命現象には、なぜかそのよう
な原理が働いているのです。
例えば、釈迦やキリスト、さらに時代を下って、ナイチンゲール、トルストイ、マハト
マ・ガンジー、マザーテレサ・・・等々、これらの偉大な人々の利他的な行動は、決し
て、自己の利益(お金などの物質的な利益ではなく、精神的な利益)を、全く無視し
た行動ではないと思うのです。
彼らの自我意識や自尊心、つまり彼らの「意志」や精神的なパワーには、たいへ
ん強いものを感じます。彼らのパワフルで積極的な行動は、とても、自己否定の人
間のなせる業とは思えません。
彼らの利他的な行動は、自分の幸福を最大限に増大させようとした結果なのでは
ないかと思います。
自分の求める「真の幸福」を限りなく追い求めた結果が、そのような利他的な行動
となって現れたのではないかと、私は思うのです。
「利他の精神」が生じるのは、自己否定の結果ではなく、自己肯定を最大限
に追求した結果なのだと、私は考えているのです。
根源的な苦によって生じる無限の欲望を、「愛の増大」に向ければ、愛と幸福が限
りなく増大して行きます。
そうすると、今までは「自分の幸福の足を引っ張る存在」としか思えなかった「自己
否定の人間」をも、愛を与える対象になって行きます。
つまり、「自己否定の人間」でさえも、自分の愛と幸福を増大させてくれる存在に変
わるのです。そして、
「自己否定の人間にも、幸福になってもらいたい!」
「自己否定の人間を、自己肯定や生命の肯定に導きたい!」
という、動機が起こり始めます。
そして、もしも自己否定の人間を「生命の肯定」に導くことが出来たなら、そのこと
によって、自分の幸福もさらに増大して行きます。
さらに愛が増大した究極においては、「自分の敵」でさえも、愛を与える対象になっ
て行くのだと思います。
そして、キリストが言ったように、「敵を心から愛すること」が出来るようになるのか
も知れません。
目次にもどる