隣人愛の具体例 2002年10月6日 寺岡克哉
前回のエッセイ32では、「自己愛と隣人愛の増幅循環」についてお話しました。
その続きとして今回は、その増幅循環の具体的な例について、お話してみたいと
思います。
具体的な例となると、やはり私の個人的な体験をお話することになってしまいま
す。私の狭い体験が、皆さんの全てに当てはまる訳ではありませんが、何か少し
でも参考になればとの願いから、書いてみることにします。
ところで、「隣人愛」などと言うと、何か大変な自己犠牲を強いるような、仰々しい
感じがしないでもありません。しかし私がお話する「隣人愛」は、そのような仰々し
いものではありません。
私がここで言う「隣人愛」とは、他人に対して怒りや憎しみ、恐れ、不安などを抱
かないように意識すること。そして、他人との和やかな関係を努めて維持し、それ
を意識的に育て上げていくと言うような、「ささやかな隣人愛」です。
愛の心をもっともっと大きくしたいとは、私も日々思っています。しかし、そうそう
簡単に出来るものではありません。心理的な防衛本能や、人見知りや、けち臭さ
や、欲望などが邪魔してしまうからです。
「自己犠牲をも厭わない隣人愛」や「大いなる慈悲の心」を持つことは、確かに、
私の最高の理想であり、人生で最大の目標です。しかし冷静に現実を直視すると、
自分がそれとは程遠い存在であるのを思い知らされます。
それでも、毎日の努力を積み重ねることによって、愛の心がほんの少しずつ大き
くなっているような気もします。
そしてまた、厳しい修行と努力により、是が非でも「自己犠牲をも厭わない隣人
愛」や「大いなる慈悲の心」を持つことよりは、「ささやかな愛情」が社会全体に広
がることの方が、大変に価値のあることだと私は思います。
皆がみな、釈迦やキリストのようになる必要はないのです。
例えば、「おもしろ半分に弱い者をいじめるのは悪い」とか、「他人を思いや
る心が大切」と言うような、「ささやかな愛情」が人類全体に浸透すれば、それ
こそが大変に価値のあることです。
しかし、それは簡単なことではありません。大変に難しいことです。
なぜなら、「人を殺すのは悪い!」と言うことでさえも、まだ人類全体には浸
透できていないからです。
それこそ、釈迦やキリストが現れて以来、2千年以上もの時間を費やしているの
に、まだ人類全体には浸透できていないのです。これは、今後の人類の重要な課
題だと言えましょう。
さて、前にお話した自己肯定の努力(エッセイ28、29、30)を続けていくと、エッ
セイ29でお話した「自己愛の実感」が持てるようになって来ます。
そうすると、不安や焦燥が消滅し、優しさや安らぎの感情が心の中に生じます。こ
の「自己愛の実感」は、始めの内は数分で消えてしまいます。しかし、自己肯定の
努力をさらに積み重ねて行くと、1時間ていどは続くようになります。
これくらい自己愛が強固になって来たら、いよいよ「隣人愛」に挑戦する時です。
勇気を出して、家から外に出ましょう。そして、自分の「優しさと安らぎの雰
囲気」を周囲の人間に与えるように意識します。つまり、隣人に「愛」を与える
のです。
「愛を与える」と言っても、なにも特別なことをする訳ではありません。いきなり人
に抱きついたり、肩を組んだり、握手をしたり、話しかけたりする訳ではありません。
優しさと安らぎの雰囲気を保つように努力しながら、外で他人とすれ違っても、顔
を強張らせないようにするだけで良いのです。
軽い笑みを浮かべることが出来ればなお良いのですが、あまりニコニコしすぎると
返って気味悪がられたり、「自分をバカにして笑っている」と誤解されて要らぬ敵意
を買ったりするので注意が必要です。しかしそれも相手によりけりです。
以上のようなことが、隣人愛への最初の一歩だと私は考えています。
私が商店街などで、「優しさと安らぎの雰囲気」と「軽い微笑」を保って歩いている
と、大抵の人は緊張したり顔をしかめつつも、嬉しそうな様子を示します。
それがなぜ分かるのかと言うと、私が自己否定に陥り、不安やイライラを周囲に
まき散らしている時と、明らかに周囲の反応が違うからです。自分が不安や苛立た
しさを露骨に出していると、赤の他人というものは、警戒心や敵愾心を結構露骨に
出すものです。
自分が「隣人愛」に努めていると、周囲の反応が明らかに違ってきます。そして
100人のうち数人は、笑顔をこちらに向けてくれる人が必ずいます。
その反応を見逃さないように注意して下さい。しかし見逃さないようにすると言っ
ても、鋭い視線を投げかけないようにして下さい。鋭い視線を投げかけると、相手
の顔がせっかく笑顔だったのに強張ってしまうからです。(私はこれで何回も失敗し
ています。)何気ないそぶりで、しかし、しっかりと相手の笑顔を確認するのです。
自分が「優しさと安らぎの雰囲気」と「軽い微笑」を投げかければ、相手も
笑顔を向けてくれる・・・。
この体験は、人生で最高の宝物です。
これは、自分が他人を肯定すれば、自分も他人から肯定してもらえること
の、確かな証明と証拠だからです。
そして、「愛の力」が幻想などではなく、確かに、「相手に作用する力」、
「周囲に影響を与える力」として実在することの、確かな証明と証拠だから
です。
そしてこれは、「自己愛と隣人愛の増幅循環」が始まり、自分が生まれ変
わる瞬間なのです。
町ですれ違う人々の、100人のうち99人が良い反応を示してくれなくても、優し
さと安らぎの雰囲気を保つように努力しなければなりません。自分が緊張してしま
うと、自己愛と隣人愛の増幅循環が途絶えてしまうからです。だから、自己愛が
ある程度強固になっていないと、隣人愛に挑戦するのは難しいのです。
「自己愛と隣人愛の増幅循環」が形成されると、愛の心がどんどん大きくなって
行くのが自分でも分かります。
町ですれ違う人への不安や恐怖がなくなります。つまり「人が好き」になるので
す。だから「他人の目」が気にならなくなります。他人から視線を向けられると、何
となく嬉しくさえ感じて来ます。
そして、電車の中で老人に席を譲ったり、書類や荷物をぶちまけて拾うのに難儀
している人に手を貸したり、道に迷っている人に道を教えたり・・・。そのようなこと
が、何の躊躇もなく出来るようになります。
また、世の中を「素直な心」で見ることが出来るようになります。歪んだ心で世の
中を見なくなるので、世の中が明るく感じて来ます。
「素直な心」で世の中を見ると、自分の周囲に、たくさんの愛情が存在しているの
が見えて来ます。
赤ん坊を抱く母親や、家族連れの親子や、楽しそうな友達同士やカップルなど、
自分の周囲にたくさんの愛情が存在していることに、気がつき始めます。
それを見れば、生きるのが何となく嬉しくなり、自分も生き生きとして来ます。
自己愛だけに閉じこもるより、隣人愛へと愛を広げた方が、はるかに世界が開
けて来ます。世の中が輝いて来ます。愛の心がさらに強く大きくなります。
「隣人愛」と言っても、なにも自己犠牲を強いるような仰々しいものではありませ
ん。隣人愛への第一歩は、「人間を必要以上に毛嫌いしない」という程度で良いの
です。
「生命の肯定」へ至る道は、自己愛から隣人愛へと続きます。
自己愛がある程度まで強くなったら、次は勇気を出して、是非とも「隣人愛」
に挑戦してほしいと願ってやみません。
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