自己愛の実感          2002年9月8日 寺岡克哉


 ところで、前回のエッセイ28でお話した「自己肯定の努力」について、一つ言い忘
れたことがありました。
 それは、「自分に不安や焦燥を感じさせるものを、自分の周囲に置かない」
と、いうことです。
 例えば、私の場合は「テレビのニュース」です。テレビのニュースで、無差別な通
り魔殺人や、幼児虐待による死亡などの報道を見ると、私はやり場のない怒りや
悲しみに苛まれるのです。そして不安と焦燥が増大します。
 「やはり、こんな人類など地球に存在しない方がましなのだ!」と、いう思いに取り
憑かれ、「生命の否定」に陥ってしまうのです。
 食事のときに、このようなニュースが目に入ると、食べ物の味さえ分からなくなり
ます。テレビの過激な効果音と、アナウンサーの煽り立てるような口調に、自分の
精神が掻き乱されてしまいます。神経が逆撫でされ、心が不安定になってしまうの
です。
 だから私は、テレビのニュースを極力見ないようにしています。

 そして、これは一般にテレビだけでなく、自分の身の周りの環境や、人間関係に
ついても言えることだと思います。
 会社で自分がリストラの対象になっていたり、学校でいじめに合っていたり、家庭
で親から虐待を受けていたり、夫から虐待を受けていれば、自己否定からの脱却
どころではありません。
 このような状況では、いくら自分が自己肯定の努力をしようとしても、周囲の環境
に足を引っ張られて、自己肯定がどうしても出来ないのは当然です。

 現代科学は、人間が憂鬱な気分になるのは、脳内の色々な化学物質のバランス
が崩れるからだと説明します。科学的(物質的)には、その説明は確かに正しいと
思います。
 しかし、「なぜ脳内の化学物質がバランスを失うのか?」といえば、それは周囲
の環境や人間関係と、それらに対する自分の思考や認識が関係していることは、
否定できないと思います。
 周囲の環境や人間関係(と、それらに対する自分の思考や認識)の改善をなくし
ては、自己否定の根本的な解決にはならないと思うのです。
 周囲の環境が著しく悪い場合には、思い切って会社や学校や家庭から離れるの
も良いかもしれません。(特に、自殺をしかねない程の非常事態の時には、そのよ
うな緊急避難の措置が絶対に必要だと思います。)
 しかしながら、普通の多くの場合では、そこまでする必要も無いのではないかと思
います。緊急でない普通の場合には、「他人の目や、他人のことを全く気にしなく
て良い時間」
というのを、一日に30分でも1時間でも良いから、意識的に確保する
ように努めれば良いのではないかと思います。(実際に私もそうしています。)
 他人の目や、他人のことなど全く気にしなくて良い場所と時間を、自分で確保する
のです。
 近くに川があれば、川原に行って水の流れを見つめたり、自分の部屋に誰もいな
ければ、部屋の窓から空を眺めたりするのです。そして、とにかく「他人」を自分の
視野に入れないようにするのです。
 林の中を散歩したり、ジョギングをするのも良いかも知れません。風の音や水の
音、鳥のさえずりなどに耳を澄ませて、「人間」のことを考えないようにするのです。
 風の肌触りや、木々の匂いや、草花の匂いに意識を向けるのです。
 山や川、木、草、花、空、雲、海などの自然を体で感じるのです。
 一人で風呂に入り、「ボ〜ッ」とするのも良いと思います。
 静かな部屋で座禅をし、瞑想するのも良いかと思います。
 このように「他人のことを忘れる時間」を持つと、気分が大分楽になります。そして、
「自己肯定」に自分の意識を向けることが出来るようになります。
 そのような時間を確保しながら、毎日少しずつ自己肯定の努力を続けて行くので
す。くれぐれも焦ってはいけません。また、「自己肯定をしなければいけない!」と、
自分自身を追い詰めてもいけません。気長に、気長に、取り組むのです。
 「自己肯定の努力」とは、「苦しんで努力をすること」ではありません。
 優しさの気持ち、安らぎの気持ち、ワクワクするような気持ちなどを、「努め
て求める」という意味での努力なのです。

 以上、これまでお話したような「自己肯定の努力」を毎日続けていると、少しずつ、
徐々に、「自己愛」が持てるようになって行きます。
 最初のうちしばらくは、「自己愛の実感」を得ることは出来ません。しかし自己肯定
の努力を毎日続けていると、少しずつですが、着実に自己愛が身について行きます。
 「自己愛の実感」が直ぐには得られなくても、毎日の努力を重ねることにより、無意
識の深層心理の中に、徐々に自己愛が浸透して行くのだと思うのです。
 なぜそう思うのかと言うと、あるとき突然に、「自己愛を実感する瞬間」というも
のが訪れる
からです。
 これは、深層心理の中に積み重ねられた自己愛が、あるとき突然に健在意識に
上ってくるからだと思うのです。
 単なる「カラ元気」だったものが、心の底から自己愛を実感する瞬間が訪れるの
です。

 その自己愛の実感とは、
 殺伐とした、ジリジリとする、身を焼くような焦燥や不安がスッと消え、とても
安らいだ気分になります。
 体中をしめつけるような緊張がほぐれて、ホッとするのです。
 なにか優しくて暖かい空気が、自分の体全体に纏わりついているような感じ
がします。
 何か「大いなるもの」に自分が守られているような・・・
 そのような優しさと安らぎの雰囲気(ムード)に、全身が包まれるのです。
 冬の寒い日に、暖かい布団にくるまっているような感じに似ているかも知れ
ません。
 とても落ち着いて安らかな、とても優しい気分です。
 そして、
 「自分はこれでよいのだ!」
 「これが自分の最善の状態なのだ!」
 「自分は生きていて良いのだ!」
 「自分は生きていて幸せだ!」
と、心の底から感じることが出来るのです。
 何か良いことが起こりそうな、ワクワクした気持ちになり、
 心が元気になります。
 自分の中に生命力を感じ、「生きている実感」が湧いて来ます。

 この「自己愛の実感」は、始めの内はごく僅かしか訪れません。そして直ぐに消え
てしまいます。(私の場合は、始めの内は2〜3分ぐらいで消えてしまいました。)
 だから「自己愛の実感」が訪れたら、忘れてしまわないうちに、その実感を
覚えておくようにします。
そして今度は、その「自己愛の実感」が再現するように、
意識を向けて行くのです。
 このような努力を毎日続けていくと、「自己愛の実感」の訪れる回数が増え、その
持続時間も長くなって行きます。
 始めのうちは、一月に一度あるかないかの程度です。しかしそれが一週間に一度
になり、三日に一度、そして毎日というように、回数が徐々に増えて行くのです。
 そして「自己愛の実感」の持続時間も、始めのうちは2〜3分で消えてしまったも
のが、10分ぐらいは続くようになり、それが30分になり、1〜2時間になるという
ように、だんだんと延びて行きます。
 最近の私の場合では、晴れた日に自転車で散歩をすると、「自己愛の実感」が
いつも感じられるようになりました。つまり「ご機嫌な気分」になれるのです。時間と
しては、1〜2時間ぐらいです。
 ちなみに、「自己肯定の努力」を全く意識していなかった昔の私は、「自己愛の実
感」を感じることが出来たのは、二年間に一度ぐらいという、大変に少ない頻度で
した。

 自己肯定の努力を毎日続けていると、「自己愛を実感する瞬間」が必ず訪
れます。
 私は確かに、それを経験しました。だから私は、確信を持ってそれを言う
ことが出来ます。
 そして、努力を重ねるに従って「自己愛の実感」の回数が多くなり、その持続時間
も長くなって行きます。
 毎日の「自己肯定の努力」により、心の奥底に積み重ねられた「自己愛」はだんだ
ん大きくなり、そして強くなって行きます。
 毎日の「自己肯定の努力」は、決して無駄ではないのです!
 だから、自己愛の実感がなかなか得られないからと言って、自己肯定の努力を
直ぐに諦めないでほしいのです。私はそれを願ってやみません。

 効果を焦らず、自分を追い詰めず、何年もかけてゆっくりと、気長に、気長
に、取り組んでほしいと思います。




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