ちよっと一休み       2007年5月20日 寺岡克哉


 あまり深刻な話ばかりだと、気が滅入ってきますよね。

 今回はすこし力を抜いて、ちょっと一休みしたいと思います。


                * * * * *


 私の住んでいるところ(札幌の郊外)では、とても気持ちの良い季節になりま
した。

 暑くもなく、寒くもなく・・・

 散歩をするのに、いちばん良い季節です。

 サクラは散ってしまったけれど、ウメの花が、つい先日まで見ごろでした。

 とても不思議なのですが、私の住むあたりでは、サクラよりもウメの方が遅く
咲くのです。

 今はちょうど、八重桜が満開です。

 もう少しすると、ライラックが花を咲かせます。ライラックの花は、とても良い
匂いがしますね。私は好きです。


                * * * * *


 私は、じつは散歩がとても好きです。

 それでよく、近くの森へ散歩にいきます。

 そして時々立ち止まり、木々のざわめきや、鳥の声に耳を傾けます。

 空気の匂いや、風の肌触りを、心と体の全体で感じとります。

 そうしていると、自分が周りの自然に「溶け込んで行く」ような感じがします。

 何というか、「自己」というものが、窮屈な「自分の小さな体」から解き放たれ、
周りの世界に大きく広がって行くような感じがするのです。

 私は、「その感覚」がとても好きです。


               * * * * *


 「コンコンコン」と、キツツキが木をつついている音が聞こえます。

 野鳥を観察している人なら、すぐに見つけることが出来るのでしょう。

 しかし、私にはできませんでした。

 目を凝らして木の上を見ると、その気配がキツツキに分かってしまうの
ですね。

 木をつつく音が、「ピタリ」と止まってしまいます。

 そうするともう、キツツキがどこに居るのが、私には見当もつきません。

 そのキツツキはきっと、自分の気配を必死に殺し、息を凝らして、私が通り
過ぎるのをじっと待っているのでしょう。

 そんな雰囲気が、私にも「ビンビン」と伝わってきます。

 それ以上、キツツキをいじめるのは可哀そうなので、私はその場を立ち去る
ことにしました。

 そんな「やり取り」をしていると、キツツキの姿は見えなくても、ある種の
「意思疎通」といえるものが、お互いに存在しているのだなあと実感します。


                * * * * *


 私は犬を飼ったことがないのですが、なぜか犬に好かれます。

 私が公園の芝生で寝転がっていると、散歩中の犬がよく、私にじゃれついて
来ます。

 寝転がると、身の丈が犬とおなじぐらいになるので、仲間だと思っているの
かも知れませんね。

 あるとき、2匹の犬が、私にじゃれついて来ました。

 一匹の犬を抱いて撫ぜてやると、もう一匹の犬は、羨ましそうにじっとこちら
を見ています。

 その犬がちょっと可哀そうになり、そちらの犬も抱いて撫ぜてやりました。

 そうしたら、2匹とも安心して満足し、喜びながら向こうへ走って行ってしまい
ました。

 人の言葉を話さなくても、犬にも「感情」というものが存在するのですね。


                * * * * *


 自然は、とても優しい一面をもっています。

 その優しさに抱かれ、守られていると、

 「自分の存在は、大自然に愛されている!」

と、心の底から実感します。


 しかしまた、いちど自然が猛威を振るえば、とても恐ろしいことも、私は心の
底から思い知らされています。

 夏山での台風・・・

 冬山での猛吹雪・・・

 それらの登山経験により、私は自然の恐さを、いやと言うほど思い知らされ
ているのです。

 いちど自然を怒らせてしまったら、その怒りが静まるまで、絶対に赦しては
くれません。

 私が地球温暖化のことを、「本能的な感覚」でとても心配に感じるのは、
きっとその経験のせいなのでしょう。


 やさしい気候と、豊かな自然が、この先ずっと続いてほしいと祈ってやみま
せん。



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