呼吸ができるということ 2002年8月18日 寺岡克哉
前回のエッセイ25では、愛の感情、つまり「生命肯定の感覚」について書きまし
た。それを受けて今回は、私が「生命肯定の感覚」を得たきっかけについて書い
てみようと思います。
私の個人的な経験談になってしまいますが、みなさんにも何か参考にして頂け
る所があるかも知れないので、書いてみることにします。
非常に「個人的かつ感覚的」な話ですから、なにやら「宗教体験」や「信仰告白」
のような印象を受けるかも知れません。しかし、とにかく書いてみることにします。
私の場合の、「生命肯定の感覚」を得たきっかけは、「呼吸ができる!」と
いうことでした。
私は以前に、「生命の否定」に取り憑かれて無気力な状態になったことがありま
す。何もやる気が起きなくなり、呼吸をするのさえも面倒になったのです。
そのとき私は、「息を吐いたまま呼吸が止まり、そのまま静かで安楽な世界に行
けたらいいだろうなあ」と、思いました。
それで、呼吸を止めてみることにしたのです。
静かに息を吐き、肺の中の空気を全部出しきったところで、呼吸を止めてみまし
た。すると、ほんの数秒間だけ、静かで何も聞こえず、安楽で何もしなくて良い世界
が現れました。
本当に「何もしなくて良い世界」です。それは、「呼吸」さえもしなくて良い世界なの
です。
とにかくそれは、とても安楽な世界でした。たぶんこの安楽な感じは、「何もしなくて
良いこと」から来ているのだと思います。「何かをしなければならない!」という切羽
詰った思いが、頭の中から完全に消え去ったので、とても安らいだ気分になれたの
だと思います。
しかし、その安楽な世界は、ほんの数秒間だけの出来事でした。
呼吸を止めて数秒経つと、窒息の苦しみが起こり始めるからです。
窒息の苦しみが起こると、もう、あの安楽な世界は完全に吹き飛んでしまいます。
頭ではどんなに安楽な世界を切望しても、その意思とは関わりなく、窒息の苦しみ
がどんどんと大きくなって行くのです。
私の意思は、息を止め続けようとします。しかし、いくら自分の意思で息を止め続
けようとしても、窒息の苦しみが大きくなって耐えられなくなり、どうしても呼吸が始
まってしまうのです。
それは、体がそのように反応するからです。自分の意思とは関わりなく、自分の
体が無意識に反応してしまうからです。
これは、自分の意思とは全く関係のない場所から、「呼吸をせよ!」という命令
が下されているのだと、そのとき私は感じました。
自分の意思とは関係のない、「体の反応」という無意識の世界から、「生きよ!」
という命令が下されているのです。しかも、この命令は大変に強く、強制的なもの
です。
つまり、自分の意思とは全く関係なく、自分の体は「生きようとしている!」
のです。
このとき私は、自分の意思を超えたところに存在する意志。
「体の反応」という、意識の存在しないところに存在する意志。
つまり、エッセイ20の始めで書いた、「生命として生きる意志」の存在を実感した
のです。
ところで私は、「呼吸」についてかなり意識している(つまり、こだわっている)人間
だと、自分で思っています。
私がそのような人間になったのは、病気がちだった子供の頃の体験が関係して
いるのではないかと思います。
私が子供の頃はとても病気がちで、ちょっとした風邪を引くとすぐに39度以上の
高熱を出し、鼻と咽を詰まらせて「呼吸に苦労した覚え」があります。小学校の2、3
年生の頃は、毎月のようにこのような風邪に悩まされました。
そのとき子供ながらに、「体が健康で鼻と咽の空気の通りが良いことは、本当に
ありがたいことだ!」と、強く感じていました。
私が「呼吸」について意識しはじめたのは、多分、この病気がちだった頃の経験
が関係していると思うのです。
それから年月を経て、私は高校と大学の時代に山岳部に所属しましたが、その
時にも、随分と「呼吸に苦労した覚え」があります。
私は海外での高所登山の経験はないのですが、日本の3千メートル程度の山で
も、荷物を背負って歩いているとかなり息苦しいものです。
息を吸っても、吸っても、呼吸が全然楽になりません。歩いている間は常に呼吸
が荒くなっているのです。
そのとき、「呼吸をして体内に酸素を取り込むのも、ずいぶん大変な仕事なのだ
なあ」と感じました。
そして、「呼吸を荒げることなく、普通に静かな呼吸ができるだけでも、なんと幸福
なことなのだろう」と思いながら、山を歩いた覚えがあります。
病気がちだった子供の頃の経験と、山登りの経験から、「呼吸が無意識にできる
ことは、大変に幸福なことなのだ!」と、いうことに気がついたのです。そして、「呼
吸ができるということ」について、色々と考えるようになりました。
「呼吸」をことさらに意識せず、呼吸が無意識に出来る条件は、「自分の体が健康
であること」と「周囲の環境が正常であること」の二つです。
自分の体が病気にかかっていたり、胸や腹などを強く打ってひどく怪我をしたり、
高山などの空気の薄い場所にいたり、水に溺れかかっていたり、ゼンソクになりそ
うなくらい空気が汚れていれば、楽に呼吸は出来ません。
自分の体と周囲の環境が正常でないと、「呼吸が無意識に出来る状態」には決し
てならないのです。
自分の体が健康であること。(怪我や病気のないこと。)
身の安全が保障されていること。(空気が薄かったり、酸欠、毒ガス、水に溺れる
などの危険がないこと。)
大気汚染がなく、空気がきれいであること。
酸素のある大気が、この地球に存在していること。
その地球環境は、「地球の全ての生物を含めた生態系」によって支えられている
こと。
これらの条件が全て満たされた時に、「呼吸が無意識に出来る状態」になるので
す。そのことに思い至った時、
「呼吸が無意識に出来る」と言うそのことが、取りも直さず、
何か偉大なものに抱かれ、守られていること。
何か暖かく優しいものに包まれ、受け入れられていること。
そしてそれは、大変に幸福な状態であること。
に、私は気がついたのです。
以上のような経緯をたどって、私は「生命肯定の感覚」を感じることが出来るよう
になって行ったのです。
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