愛の感情 2002年8月11日 寺岡克哉
今までの話は、「生命の肯定(愛)」についての、論理的な考察に重点を置いてい
ました。だから、無味乾燥な話ばかりが多いと感じた人がいるかもしれません。
しかし、それには理由があるのです。感覚や感情だけに走る、理性の伴わな
い盲目的な愛は、逆に苦しみや不幸を招いて「生命の否定」の原因となるこ
とが多々あるからです。だから私は、「愛の感情」のみを無批判に煽り立てること
には、賛成しかねるのです。
しかしながら、「生命の肯定(愛)」は、論理だけで成り立たないことも事実
です。
「愛は確かに存在する!」
「生きることは素晴らしい!」
「この地球に生命が存在することは素晴らしい!」
と、いう確信が持てるのは、「愛の感情」が実感として存在するからです。愛の感
情を実感することで、生命肯定への確信が生まれるのです。
「愛の感情」を一度も経験したことのない人・・・。
あるいは、「生命の否定」や「自己否定」に長いこと取り憑かれて、「愛の感情」を
完全に忘れてしまった人・・・。
このような人には、愛が存在することをいくら論理的に説明しても、それを心の底
では納得できないのです。
そこで、「愛の感情」、つまり「生命肯定の感覚」(生命を肯定しているときに感じ
る、心や体の感覚)について、少し考察を行ってみたいと思います。
まず始めに、「生命否定の感覚」(生命の否定に取り憑かれている時に感じる、
心や体の感覚)と、「生命肯定の感覚」との比較から、考察を行っていきたいと思い
ます。
「生命の否定」や「自己否定」に取り憑かれている人には、「生命否定の感覚」は
直ぐに理解できると思います。
しかし、「生命肯定の感覚」は全く理解できないか、または、そのような感覚が存
在すること自体が信じられないのではないかと思います。私も、「生命の否定」に取
り憑かれていた時は、そうでしたから・・・。
しかしながら、「生命肯定の感覚」は確かに存在します。今の私には、確信を持っ
てそれを言うことが出来ます。
「生命の否定」に取り憑かれている人には、とても信じることが出来ないかも知れ
ません。しかしまずは、「”生命肯定の感覚”を感じることの出来る人間が存在する
のも事実なのだろう」と、いう心持ちで読んでみて下さい。
以下に、「生命否定の感覚」と「生命肯定の感覚」を挙げてみます。
まず始めに、「生命否定の感覚」から挙げます。
息が詰まり、吐き気がする。
胸が詰まり、苦しい。
胃の中に、ズンと重たい石が入っている感じ。
理由の分からない漠然とした不安。
何かに追い詰められているような焦燥感。
周囲の人間が全て敵に感じる。
周囲の人間が全く信用できない。
信用できる人間が一人もいない。
誰にも合いたくない。
孤独で、何となく情けない。
何をやってもうまく行く気がしない。
あらゆることが無意味で無駄に感じる。
何もやりたくなくなる。
呼吸をするのも面倒になる。
失望と喪失感。
理由の分からない罪悪感
自分が、なにか悪いことでも、しているかのように感じる。
自分が存在していては、いけないように感じる。
自分が生きていては、いけないように感じる。
「自分は、この世に生まれてこなければ良かったのに!」と、感じてしまう。
「この世に、生命など存在しなければ良かったのに!」と、思ってしまう。
心の健康な人にはちょっと分かりにくいのですが、これらの「生命否定の感覚」
は大変に苦しいものです。この状態が止まずに一週間も続けば、生きているの
が嫌になるのも無理はないと思います。
私などは、学生の時分に山岳部に所属し、冬山登山などを経験しましたが、そ
の経験よりも精神的には苦しいと思います。
40キロ近くの荷物を背負い、息を切らして胸まで埋まる雪をこぎ、手と足の指
全部と、顔の一部が凍傷にかかりましたが、その時の経験よりも苦しい状態だ
と思います。
だから私は、「生命の否定」に苦しんでいる人の一人でも多くが、何とかして
「生命肯定への道」を歩んでもらえるように、願ってやまないのです。
次に、「生命肯定の感覚」を挙げます。
良いことが起こりそうな感じ。
ドキドキ、ワクワクする。
全てがうまく行きそうな感じ。
何でもやりたくなる。
落ち着いて安らいだ気分。
恐れ、不安、焦燥が全くない。
胸の奥と、腹の底から、元気と勇気が湧いてくる。
愛するものと完全に一つになりたいという感覚。(例えば、愛する異性と体を重ね
合わせるだけでなく、もっと根源的な所で、身も心も完全に一つに溶け合ってしま
いたいと言うような感覚。)
なにか優しいものに包まれ、守られているような感覚。(例えば、母親の子宮の
中で暖かく守られているとでも言うような感覚。)
「大いなるもの」に抱かれているという感覚。
愛する人、愛する子供や家族を、命を懸けて守りたいという感情。
「自分の存在」を好ましく感じる。
「生きていて良かった!」と感じる。
地球の全ての生命が好きになる。
この地球に生命が存在することと、自分が生きていることが、嬉しくて嬉しくて仕方
がなくなる。
これら「生命肯定の感覚」は、生命の否定に苦しんでいる人には、とても理解し難
く、信じられないことだと思います。しかし、「生命肯定の感覚」は確かに存在す
るのです。
「生命肯定の感覚」を持つことが出来れば、生命肯定への確信が生まれます。
「愛は確かに存在するのだ!」
「生きること、生命が存在することは、やはり素晴らしいのだ!」
と、いうことが、議論や考察の必要なく当たり前に感じられるのです。
しかしながら、ここで大きな問題が立ちはだかっています。
それは、如何にしたら、「生命肯定の感覚」が持てるのか? という問題で
す。
この問題は大変に大きなもので、宗教、哲学、脳生理学、心理学、精神医学な
どの分野での、主要なテーマの一つにさえなっているのではないかと思います。
そして、「生命肯定の感覚」をつかむきっかけも、これまた人によって様々です。
宗教への信仰や、長年に渡る瞑想や修行。
優れた哲学や思想、文学、芸術、音楽などに触れたこと。
精神医療や、カウンセリングによる治療。
素敵な人や、素晴らしい人との出会い。
ちょっとした出来事によるきっかけ。
九死に一生を得るような、重大な出来事や事件との遭遇・・・。
等々、それこそ人によって千差万別です。
それらの全体を網羅することは、とても私には出来ません。私には、そんな能力
はありません。
だからこれから先の、「如何にしたら、生命肯定の感覚が持てるのか?」という問
題に対する考察は、私の個人的な経験と知識に基づいたものになってしまうのは、
仕方がないのです。
しかしながら、他の人にも役に立つことや、共感してもらえることがあるかも知れ
ませんので、次回から述べて行くことにしたいと思います。
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