生命の絶対価値 2002年7月28日 寺岡克哉
あなたが「生命の仕事」を行えば、あなたに「絶対価値」が生じます。
私は、自己否定が蔓延する原因として、自分の「絶対価値」を忘れ去り、「相対価
値」ばかりを追い求める現代の社会風潮も、その一因ではないかと考えています。
自分の「絶対価値」を再認識することが出来れば、自己否定から脱却するための
大きな拠り所になると、私は考えるのです。
しかし、ここでいきなり「絶対価値」とか「相対価値」などと言っても、何のことかさっ
ぱり要領がつかめないと思います。そこで「絶対価値」と「相対価値」について少し
説明をしたいと思います。
「絶対価値」とは、「その人間にしか出来ない仕事を成し遂げること」によって
生じる価値です。「絶対価値」は、他の人間に取って代わることの出来ない、その
人間の絶対的な価値です。
「絶対価値」の代表的なものは、偉大な思想家や芸術家、科学者などがこの世に
残した仕事です。
釈迦、キリスト、ソクラテス、レオナルド・ダ・ビンチ、シェークスピア、ベートーベン、
アインシュタイン・・・等々。彼らがこの世に残した業績は、彼らがいたからこそ成し
遂げられたものです。彼ら以外の人間には、絶対に出来なかったことです。
だから「絶対価値」は、他の人間が取って代わることの出来ない、その人間の絶対
的な価値なのです。
一方、「相対価値」とは、「他人との競争に勝つこと」によって生じる価値です。
「相対価値」の代表的なものは、スポーツ競技の「優勝」や、大学受験の「合格」
などです。
スポーツ競技や大学受験は、身体に重度の障害のない普通の人間ならば、基本
的には誰にでも実行可能なことです。もちろん、人によって上手下手はあります。し
かしながら、手足が動かないとか、目が見えないなどの障害がない限り、ごく普通の
人間ならば誰でも実行可能なことです。
だから「相対価値」は、「その人間にしか出来ない仕事を成し遂げること」に価値が
あるのではなく、「他人との競争に勝つこと」に価値があるのです。
相対価値は、「競争」をしないと価値が生まれません。なぜなら、「相対価値」その
ものには価値が存在していないからです。
例えば、スポーツ競技の参加者全員を優勝にし、大学の受験者全員を合格にす
れば、「優勝」や「合格」の価値は消滅してしまいます。これは、「優勝」や「合格」そ
のものに価値が存在する訳ではないからです。
一方、「絶対価値」は、競争を行わなくても価値が存在します。「絶対価値」には、
そのものの価値がちゃんと存在しているからです。そして、そもそも「絶対価値」は
競争をすることが不可能です。なぜなら「絶対価値」は、その人間にしか出来ない
仕事の価値だからです。
釈迦やキリスト、その他諸々の偉人が行った仕事は、他の人間との競争に勝った
から価値があるのではありません。彼らの人生観や自然観、あるいは彼らの行動
そのものに価値があるのです。
そして、彼らと競争をすることは絶対に不可能です。彼らの行った仕事は、彼ら
にしか成し遂げられなかったことだからです。
(ここで誤解のないように断りますと、「スポーツを行うこと」や「大学教育を受ける
こと」には、もちろん価値が存在します。スポーツや学問における心身の鍛錬、人的
コミニュケーションの拡大、知識の増大、知性の練磨。これらは、「競争」を行わなく
ても価値がちゃんと存在しています。)
また、相対価値は「その人間である必要」がありません。誰でも良いのです。
スポーツ競技の「優勝」は、競技に勝った者ならば誰でもかまいません。大学受験
の「合格」は、試験の成績の良い者ならば誰でもかまいません。
それは、「相対価値」がその人間に備わった絶対的な価値ではないからです。だ
から「相対価値」は、いつでも誰にでも、取って代わることが出来ます。また、いつ
誰が取って代わっても、別に何の支障も起こりません。
一方、「絶対価値」は他人が取って代わることは不可能です。それは、前述のよ
うに「その人間にしか出来ない」仕事の価値だからです。
ところで、自分の絶対価値を完全に忘れ去り、受験競争や出世競争などの相対
価値ばかりを追い求めていると、生命の否定や自己否定に取り憑かれてしまい
ます。
なぜなら、相対価値には競争や闘争が常に付きまとい、不安や焦燥が絶えない
からです。
相対価値を獲得するためには、競争や闘争に勝たなければなりません。さらに、
相対価値を維持するためには、常に勝ち続けなければなりません。このため、相
対価値には「闘争の苦しみ」が常につきまとうのです。
また、闘争に勝つためには、エゴイズムをむき出しにして戦わなければなりませ
ん。これが、「生命の肯定」を不可能にしてしまいます。つまり、他者を思いやると
いう「愛の心」が持てなくなってしまうのです。
さらに相対価値には、不安や焦燥が尽きません。相対価値は、闘争に負ければ
誰にでも取って代わられるからです。そして、永久に勝ち続けることは絶対に不可
能ですから、相対価値はいつか必ず失ってしまうのです。
闘争による苦しみ、エゴイズムの増長、不安や焦燥の増大。これらの要因が、自
己否定や生命の否定を誘発してしまうのです。
勝ち続けているうちは良いのです。しかし負けた時に、生命の否定や自己否定に
激しく取り憑かれてしまうのです。そして全ての人間が、いつかは負けるときが必ず
来るのです。
一方、「絶対価値」は、競争や闘争をする必要がありません。また、他の人間に
取って代わられることもありません。
「絶対価値」の追求は、闘争の苦しみも、エゴイズムの増長も、不安や焦燥も存在
しないのです。
ところで「絶対価値」は、歴史に残る人物のような特別なことをしなくても、得ること
が出来ます。
あなたは生きているだけで、十分な「絶対価値」を既に持っているのです。
なぜなら、あなたと全く同じ「生命の仕事」を行える人間など、この世に一人も存在
しないからです。
あなたと全く同じ時代に生き、全く同じ場所で生活し、全く同じ言動をし、他の人間
や生物に対して、あなたと全く同じ影響を与えることなど、あなた以外の人間には
絶対に不可能だからです。
つまり、あなたの人生はあなただけのものであり、他の人間には絶対に真似が出
来ないからです。
あなたが行う「生命の仕事」は、あなただけにしか成し遂げることのできない、
この世で唯一無二のものです。
だから、あなたは生きることで、十分な絶対価値を既に持っているのです。
ところで、この「絶対価値」は、人間だけでなく全ての生物が持っているものです。
なぜなら全ての生物が、その生物にしか行うことが出来ない、独自の「生命の仕事」
を行っているからです。
ゆえに、個々の生物の全てが「絶対価値」を持っているのです。
私はこれを、「生命の絶対価値」と呼びたいと思います。
全ての生物は、「生命の絶対価値」を持っています。
だから「無意味な生命」などと言うものは、この世に一つも存在しません。
ゆえに、全ての生命は尊重されなければならないのです。
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