自我意識の不思議 2    2006年2月12日 寺岡克哉


 前回に引きつづき、「自我意識」というものの不思議さについて、私の感じている
ことをお話したいと思います。

                * * * * *

 じつは以前・・・ 私は「座禅」に少しハマっていたことがありました。
 座禅とは、姿勢を正しくして座り、しずかに呼吸を整え、ゆったりと心を落ちつか
せて、無念無想の「無我の境地」を目ざすものです。

 私は座禅を始めて最初のころ、この「無我の境地」とは、「自我意識の存在しない
状態」のことだと思っていました。座禅とは、それを目ざすものと思っていたのです。

 しかしどうやら、それは間違っていたようです。
 あるとき座禅の本を読んでいて、面白いことが書いてありました。やはり、私と
同じように思っている人が多くいるらしく、「なかなか無我の境地になれない!」と
相談する人が後を絶たないそうです。そのようなとき、座禅を指導しているその本
を書いたお坊さんは、
 「酒をたっぷりと飲んで、ぐっすり寝てみたまえ!」
 「そうすれば、座禅なんかしなくても無我の境地になれる!」
と、言うのだそうです。そしてそれから、「座禅とは、自我意識の存在しない状態
を目ざすものではない!」ということを、教えるのだそうです。

 たしかに考えてみれば、自我意識をまったく失っていては、修行にもならないし
悟りを開けるはずもありません。
 それはたとえば、病気や事故などで「意識不明の昏睡状態」が何年も続き、その
後に意識を取りもどしたとしても、悟りなど開ける訳がないので分かります。
 だから「無我の境地」とは、自我意識が存在しない状態ではなく、ちゃんと自我
意識の存在している状態なのです。

 ところで、座禅によって瞑想をしているときの「自我意識」は、普通のときの自我
意識とすこし違っていて、「とても不思議な感じ」がします。
 何というか・・・ すこし大げさな表現をすれば、「自分の意識が宇宙全体に溶け
込んで、宇宙と自分が一つになる!」というような感じです。つまり、この小さな身体
から自我意識が解き放たれて、宇宙全体に広がって行くような感じです。
 それは、デカルトの言ったような「我思うゆえに我在り」という「小さな自我意識」
ではなくて、「我思わずとも我在り」というか、「我無しと思えども、大きな我在り」と
いうような「大きな自我意識」なのです。

 しかしそれは、単なる私の思い込みかもしれません。あるいは瞑想によって、
脳波のアルファー波が多く出ているために、そのように感じるだけかも知れません。
 しかしながら、いつも普通に自覚している「小さな自我意識」とは別に、このような
「大きな自我意識」、つまり「形而上学的な自我意識」と言えるようなものが、
たしかに存在するのではないかと私は思うのです。


 この「大きな自我意識」は、黙祷(もくとう)、つまり言葉を唱えない無言の「祈り」
によっても感じることができます。
 祈ることによって、「神」を心の底から愛するのです。精神のかぎり、思いのかぎり
を尽くして神を愛します。そして、神と自分が一つになるように強く望みます。
 そうすると、「神の無限の愛」に抱かれ、それと自分が一体になり、とても大きな
喜びと幸福に満たされるのです。
 このような「神との一体感」というのも、大きな自我意識、つまり「形而上学的な
自我意識」の一種ではないかと思います。

 以上のように、「形而上学的な自我意識」というものが存在するのも、私が自我
意識について不思議に思っていることなのです。

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 ところで・・・ 「自我意識」は、一体どこに存在するのでしょう?

 これも、私が自我意識について不思議に思っていることです。
 この疑問に対してまず第一に考えられるのは、自我意識は「脳の中」に存在する
だろうと言うことです。

 しかしながら、脳の中の一体どこに、自我意識は存在するのでしょう?
 それに対しては、大脳のなかでも高度な思考を行うところ、つまり「大脳新皮質」
に自我意識は存在するのだろうと考えられます。

 それでは、大脳新皮質の一体どこに、自我意識は存在するのでしょう?
 このようなことを最後まで突き詰めれば、結局、一つ一つの「脳細胞」と、それら
が伝達している「電気信号」に行きついてしまいます。
 しかし私は、「脳細胞」や「電気信号」なんかに、自分の「自我意識」が存在する
など、とうてい考えられません。

 「自我意識」というのは、脳細胞のような「単なる有機体」ではないと思います。
また、脳細胞の伝える「単なる電気信号」でもないと思います。
 たしかに、脳細胞や電気信号が存在しなければ、自我意識も存在できません。
しかし「自我意識」とは、たくさんの脳細胞がつながって複雑なネットワークをつくり、
それによって脳細胞や電気信号には存在しない性質をもつ、「まったく新しい
存在」
として存在しているように思うのです。

 それはたとえば、「生命」についても同じように考えられるかと思います。
 「生命」も結局は、原子や分子などの「単なる物質」からできています。もしも原子
や分子が存在しなければ、「生命」も絶対に存在できません。
 しかし「生命」とは、原子や分子などには存在しない性質をもつ、「まったく新しい
存在」として存在しているのです。
 「自我意識」の場合も、それと同じだと私は考えています。

                * * * * *

 「自我意識」が自分に存在するのは、疑い得ないほど確かに実感できます。
 しかし自我意識は、見ることも触ることも出来ません。
 その正体が何ものなのかも、完全に知ることはできません。

 自我意識とは、まったくもって「不思議なもの」だと私は思います。



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