存在の肯定 2006年1月29日 寺岡克哉
私は、「存在の肯定」というのが、「愛」のいちばん普遍的な定義であると
考えています。
しかし、いきなりこんなことを言っても、皆さんには何のことか分からないかもしれ
ませんね。
それを皆さんに理解して頂くために、まずはじめに「生命」の場合について、考え
てみることにしましょう。そうすると、「愛」とは「生命の肯定」であることが分かって
頂けるかと思います。
たとえば、
異性を愛して子供を作ること。
愛する子供を守り育てること。
家族がみな愛し合って、平和な家庭を築くこと。
あるいは隣人を愛し、
困っている人や、難儀している人がいたら、手助けしてあげること。
悩んでいる人の相談にのったり、悲しんでいる人をなぐさめてあげること。
病気や怪我で苦しんでいる人を救うこと。
さらには人類全体を愛し、
テロや戦争を止めさせ、世界の平和と安定を実現すること。
食糧生産や医療技術、教育や文化などを普及させ、飢えや貧困を根絶させる
こと。
またさらには、生命全体を愛し、
絶滅しそうな動物や植物を保護し、それらを絶滅から救うこと。
人類による自然破壊から、地球の環境を守ること。
このように、新しい生命を生み、増やし、育てること。
そして、苦しんでいたり、弱っていたり、死にそうになったり、絶滅しそうな生命を
救うこと。
さらには、世界平和や地球環境をまもり、生命が末永く存続するための条件を
ととのえること。
以上のような生命の存続を目的とする、思考や感情や行動が「愛」です。つまり
生命の存在を肯定する、生命の活動が「愛」なのです。
優しさ、思いやり、慈しみ、利他の心、助け合い・・・ これら、生命の存在をサポー
トする思考や感情や行動は、みな「愛」の仲間です。
逆に、「生命の否定」は「憎しみ」であると言えます。
虐待、暴行、傷害、殺人、テロ、戦争、大量虐殺・・・。
これら生命を傷つけ、生命の存在を消し去ろうとする行為、つまり生命の存在を
否定する行為は、「憎しみ」がその原因や動機となっています。
怒り、妬み、差別、偏見、嫉妬なども、「生命の否定」を招くという点で「憎しみ」と
同じ仲間です。
このように、「生命の否定」が「憎しみ」であることを考えれば、「生命の肯定」が
「愛」であることを納得して頂けるかと思います。
* * * * *
ところで私は、上の話が「生命」の場合だけに限らず、「この宇宙に存在する全て
のもの」についても、同じように言えるのではないかと考えています。
つまり生命の存在を肯定するだけでなく、この宇宙に存在する全てのものに対し
て、その存在を肯定をすることが「愛」だと思うのです。
なぜなら、愛する仕事、愛する趣味、愛する家、愛する車、愛する音楽、愛する
絵、愛する本、愛する郷土、愛する国、愛する自然、愛する地球、愛する太陽系、
愛する銀河系、愛する宇宙・・・ これら生物以外のものに対しても、「愛する」という
概念が使われているからです。
そして「愛するもの」は、それが存在し続けてくれることを望み、そのために惜しみ
ない努力を払います。
ゆえに、あるものに対してその存在を望むこと、つまり「存在の肯定」が、「愛」の
いちばん普遍的な定義だと私は思うわけです。
ところで・・・ 「存在を否定されるもの」は、存在することができません。
ただし、ここで私の言う「存在を否定されるもの」とは、大自然の摂理とか宇宙の
摂理、つまり私がいつも言う「大いなるもの」によって、その存在を否定(禁止)され
ているものです。
それは例えば、
「光の速度よりも速く移動する物体」とか、
「寿命が1000年を超える人間」
「高さが1000メートルを超える大木」
と、いうようなものです。このように、「大自然の摂理」とか「宇宙の摂理」によって
存在を否定されるもの、つまり「大いなるもの」によって存在を否定されるものは、
この世に存在し得ないのです。
ゆえに、「大いなるもの」によって存在を認められているもの、存在を許されて
いるもの、存在を肯定されているもの・・・ つまり「大いなるもの」に愛されている
ものだけが、この世に存在できるのです。
逆に言うと、この世に存在するものはすべて、「大いなるもの」によって
愛されているのです!
* * * * *
しかしなぜ、この世に「悪」というものが存在するのでしょう?
戦争や大量虐殺などのような「悪」も、「大いなるもの」によって存在を認められ、
存在を許され、存在を肯定されているのでしょうか?
「悪」もこの世に存在するからには、「大いなるもの」によって愛されているので
しょうか?
私はこの疑問に対して、たとえ「悪」といえども現実に存在している限りは、その
存在を否定されていないと考えます。なぜなら、この世に「悪」というものが実際に
存在するし、その事実を否定することは出来ないからです。
しかし「悪」は、長続きすることができません。ちょっと長い目で見れば、「悪」は
存在を否定され、存在することが許されなくなり、かならず滅んでしまいます。
それは人類の歴史を見れば明らかです。たとえば世界大戦を起こした独裁者な
どは、それがどんなに「巨大な悪」であっても、長続きできずに必ず滅んでいます。
「悪は必ず滅びる!」と言いますが、私は「必ず滅びるものが悪なのだ!」と考え
ています。
なぜなら「悪」は、いずれその存在を否定されて、存在することが出来なくなって
しまうからです。この世に存在するものの中で、そのような性質を持つものが「悪」
と呼ばれるのだと思います。
「悪」がなぜ悪いのかと言えば、悪を行えば存在が許されなくなり、「滅びてしまう」
から悪いのです。
この世に「悪」はいつもはびこるものですが、しかしながら一つ一つの「悪」に着目
すれば、かならず滅んでいることが分かります。
だから結果的に「悪」は、「大いなるもの」によって存在を否定されていると
結論されます。
* * * * *
しかしながら、一時的にせよ、なぜ「悪」は存在を許されるのでしょう?
それは、人間の「自由」と「可能性」を追求することが、「大いなるもの」によって
認められているからだと私は考えています。
(ところで「悪」という概念は、人間以外の動物や、植物や、物質などには存在し
ません。だから「悪」の問題は、人間だけに限った、人間に特有のものと言えるで
しょう。)
「大いなるもの」によって人間は、思考力と行動力の限りをつくして、自由と可能性
を追求することが認められています。なぜなら事実、人間はそのような生物として
この世に存在しているからです。
そういう状況のなかで人間は、「善」を作り出すこともあれば、「悪」を作り出して
しまうこともあるのです。(たとえば宗教や科学技術など、いくら「善いもの」と思って
作っても、それを戦争などに悪用されれば「悪いもの」になってしまいます。)
そこで「大いなるもの」は、人類(や地球の生命全体)の存続にとって有益な「善」
だけを残そうとし、その反対に有害な「悪」は、これを滅ぼして取り除こうとするの
です。
そのようにして人類全体の「善」の総量は増え、人類はさらに「善なる存在」に
なって行くのだと思います。つまり人類は、さらに存在を肯定され、さらに存続可能
な存在になって行くのです。
しかしながら、もし人類の「善性」よりも「悪性」の方がどんどん大きくなるならば、
「大いなるもの」によって人類の存在は否定され、いずれ人類は滅んでしまうで
しょう。
なぜなら上でお話したように、「悪は必ず滅びるもの」であり、「必ず滅びるもの
が悪」だからです。
この先、人類がそうならないようにと、私は祈るばかりです。
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