自ずから然る 2006年1月22日 寺岡克哉
今から2300年ぐらい昔の中国に、「荘子」という、とても有名な人がいました。
その人は、「老子」とならんで中国における老荘思想をつくり上げた人です。
ところで、この「荘子」という人の思想は、「自ずから然る」(おのずからしかる)
という考え方で一貫していたそうです。
今回は、この「自ずから然る」ということについて、すこし考えてみたいと思いま
した。
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荘子の思想は、たとえばキリスト教における「神」のような、「絶対的なもの」の
存在を認めています。
その「絶対的なもの」に対して自己を放ちすて、身も心もまかせきること。
そしてそれにより、現実のわずらいから解放され、とらわれのない「自由な精神」
と、絶対的な「心の安らぎ」を得ること。
荘子の思想のエッセンスは、そのようなことだと思います。
しかし荘子の言う「絶対的なもの」とは、キリスト教で言われる「神」とすこし
違うみたいです。
荘子が「自ずから然る」と言っている、その「因るべき対象」は、たしかに人間の
働きを超越して存在するものです。が、しかしそれは、むしろ「宇宙のすべてを貫く
法則」という性格が強いようです。
「宇宙のすべてのもの」は、それぞれあるがままにあり、そこに自ずからなる
宇宙の秩序が作られているけれども、それは「何者か(神)がそう在らしめている」
訳ではなくて、まさに文字通り「自ずから然る」(自分からそうなっている)のです。
そして、宇宙のすべての物が「自ずから然る」ことにより、人間にはどうすること
もできない「必然的な法則」になっているのです。
* * * * *
私たちの存在する「この宇宙」は、どうして今在るような状態になってるので
しょう?
宇宙のすべてのものを、「何者か」が今在るような状態にしているのでしょう
か?
それとも宇宙のすべてのものが、「自ずから」今在るような状態になっている
のでしょうか?
つまり宇宙の法則が、宇宙のすべてのものを「司っている」のでしょうか?
それとも宇宙のすべてのものの、それぞれあるがままの状態が、宇宙の法則
を「自ずから形成している」のでしょうか?
これら両者の考え方の違いを、私はとても興味深く感じます。
* * * * *
ところで、「司る」のと「自ずから然る」のとでは、一体どちらの考え方が正しい
のでしょう?
両者とも、論理的には正しいように感じます。
そして、
宇宙の全てをつらぬく絶対的で普遍的な法則、つまり「大いなるもの」の存在を
認めていること。
その「大いなるもの」に身も心もゆだね、「絶対的な心の安らぎ」を得ようとする
こと。
これらも、両者はほとんど同じように思います。
それでは両者の間で、とくに何か違いが現れてくるのでしょうか?
私はこの疑問に対して、たとえば「物体の落下」という物理的な運動法則について
考えてみたいと思います。
たとえば、あらゆる物体が高いところから低いところに落下するのは、
何者かの見えない力によって、「強制的に引っぱられている」からでしょ
うか?
それとも、「自ずから落ちるべき所に落ちている」だけなのでしょうか?
たしかに、両者の考え方が可能だと思います。
しかしながら、西洋において「万有引力の法則」が発見されたのは、前者の考え
方によってなのです。つまり、「何者か(神)が司っている見えない法則を、
何とかして知りたい!」という動機から、西洋において自然科学が発達したのは
疑うことができません。
これは、「少しでも神の摂理を理解し、少しでも神に近づきたい!」という、
欲求の現れではなかったかと思います。
一方、東洋における「自ずから然る」という考え方は、もうそれ以上の原因究明
をあきらめさせてしまうような、なにか思考停止に陥らせるような感があるように
私には思われます。
だから私は、「大いなるものが司っている」という、前者の立場を取りたいと思っ
ています。
参考文献 荘子 金谷 治訳注 岩波文庫
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