「目出たい」ということ 2006年1月1日 寺岡克哉
今日は元旦なので、「目出たい」ということについて、ちょっと考えてみたいと思い
ます。
まずはじめに、「目出たい」という言葉を辞典で調べてみました。そうすると、「祝う
べきである」とか、「喜ばしい」というような意味がありました。
ところが私は、元旦や正月がどうして「目出たい」のか、実をいえばその理由が
ちょっと分からないのです。(「正月が目出たいのは当たり前だ!」と言われれば、
それはそうなのですが・・・ )
たぶん、元旦や正月は「新しい年の始まり」なので、みんなで祝ってそれを「確認
し合う」という意味があったのではないでしょうか?
というのは、江戸時代より以前の一般民衆は、カレンダーなど誰も持っていなかっ
たと思うからです。だから元旦や正月をみんなで祝って確認し合わなければ、だれも
「新しい年の始まり」を知ることが出来なかったのだと思います。
しかしこれは私の想像で、本当のところは知りません。
* * * * *
ところで、一般に「目出たいとき」というのは、どういう時かをここで考えてみま
しょう。
そうすると、
結婚、妊娠、出産。
学校への入学、進学、卒業。
就職、昇進・・・
などが挙げられるかと思います。
そして、これらを別の視点から見ると、
結婚や妊娠は、新しい生命の生まれる「可能性」ができること。
出産は、新しい生命が生まれること。
入学や進学は、生まれた生命が順調に成長して行くこと。
卒業は、成長が完成して一人前になること。
就職や昇進は、一人前になった生命が、生命として意味や価値のある仕事が
できていること。
というように、捉えられるのではないでしょうか。
このように、新しい生命が生まれ、それが順調に成長し、首尾よく一人前になり、
意味や価値のある仕事(生命活動)ができること。そのようなことに、「目出たい」
という言葉が使われると思うのです。だからこの言葉は、「生命の健全な状態」と
密接に関係しています。
つまり「生命の健全な状態」とは、祝うべきであり、喜ぶべきことであり、「目出たい
こと」なのです。
そしてこれは、事故や災害がなかったり、病気や怪我をしなかったり、あるいは
病気や怪我が治ったときなどにも、「目出たい!」と言われることから分かります。
* * * * *
以上のように考えて来ますと、「目出たい」とは、生きることを肯定し、生命の存在
を肯定している言葉であるのが分かります。
新しい生命が生まれることは、目出たい!
新たな生命が、スクスクと順調に成長することは、目出たい!
生命が一人前になり、その価値を遺憾なく発揮させることは、目出たい!
つまり、「生命の肯定」は目出たいのです!
「生命の肯定」は、祝うべきであり、喜ぶべきであり、好ましいものなのです。
それは、「生命の肯定」と反対の状態(今日は元旦なので、あまり否定的なことは
書きませんが・・・)が、「目出たい」とはとても言えない状態であることを考えれば、
そのことが一層はっきりとします。
生命が生命として、十分に生かしきっている状態。
生命の存在意義や存在価値を、思う存分に発揮している状態。
このように、生命の肯定されている状態が、「目出たいこと」なのです。
「目出たい」とは、そう言うことなのだろうと私は思います。
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