希望について 2005年12月18日 寺岡克哉
私は近ごろ、「希望」というものの大切さに気がつきました。
この「希望の大切さ」については、エッセイ197やエッセイ198を書いていたころ
から積極的に意識しはじめたのですが、しかしその前は、実はあまり意識していま
せんでした。
もちろん、「生きるためには希望が大切だ!」という言葉は知識として知っていま
した。しかしそれを、心の底では実感していなかったのです。
と言うよりはむしろ、心では「希望が大切なこと」を無意識に実感していたのだけれ
ど、その実感が「希望の存在」によるものだとは、頭ではっきりと理解していなかった
のかも知れません。
何を言っているのか、分かりにくいかも知れませんね。
たとえば・・・ 毎日の生活を過ごしていると、何となく心がドキドキワクワクして、
「生きる喜びに満ちているとき」というのがあります。
しかし、その時のことを良く思い出してみると、生きることが楽しいときは
「心が希望に満ちているとき」だというのが、最近になって分かってきたと言うこと
なのです。
「何となく幸先(さいさき)がよい!」というか、
「何となく旨く行きそう!」
「何となく良いことが起こりそう!」
と、思えるようなとき。つまり「心が希望に満ちているとき」は、生きているのが楽しい
のです。
その逆に、「生きるのが辛いとき」とは、希望が見えないときです。
「何となく幸先がわるい!」
「何もかも、うまく行きそうにない!」
「何か悪いことが、すぐにでも起こりそうだ!」
と思えるとき。そのようなときは、生きることが辛く感じるのです。
そしてさらに、「死にたくなるとき」とは、生きることに「絶望」したときなのです。
このように考えてくると、「希望」とは生きる原動力であり、生きるエネルギーで
あり、「生命そのもの」だと言うことが分かってきます。
私は最近まで、「愛」が生きる原動力であり、生きるエネルギーの源であり、
「生命そのもの」だと考えていました。そして確かに、心の底からそのような実感
と確信を持っていました。
しかし今は、「希望」は「愛」と同じぐらいに生命にとって大切なものだし、「生命
そのもの」だと思うようになったのです。
* * * * *
ところで、生きることを辛く感じ、生きることに消極的な人の中には、
「希望など、最初から持たなければよい!」
「そうすれば、絶望することもないのだ!」
と、考える人がいるかも知れません。
しかし私は、自ら希望を捨てたり、希望を持つことを自ら否定するのは、「自殺
行為」だと考えています。なぜなら「希望」を捨ててしまったら、とてもじゃないけど
「人間として」生きて行けないからです。
完全に希望をすて、なに一つ希望を持たずに生きていても、それは「人間として
生きている」とはとても言えません。それはただ、生活の惰性や時間に流されて、
「肉体が生存しているだけ」というに過ぎないのです。
人間が人間らしく、いきいきと生きるためには、「希望」を持つことがどうしても
必要です。だから私は、どんな時でも「希望」は持ち続けるべきだと思っています。
* * * * *
しかしながら、はたして「自分が生きて存在すること」などに、希望なんかあるの
でしょうか?
そしてさらには、そもそも「人類の存在」などに、希望なんかあるのでしょうか?
というのは、人間は傲慢で、自分勝手で、ずるくて、愚かで、汚くて、醜い生き物
だからです。
その証拠に、テロや戦争、地球環境の破壊、差別、偏見、騙し合い、闘争、
憎しみ合い・・・。そして、およそ考えられる限りの不正や犯罪を、人類は飽きも
せずに延々とくり返しています。
自分が長く生きれば生きるほど、そのことが心の底まで思い知らされます。
こんな「人類の存在」などに、希望なんかあるのでしょうか・・・
そして、こんな醜い人類の一員である「自分の存在」などに、希望なんかあるので
しょうか・・・
しかしそれでも、私は「人類の存在」と「自分の存在」に希望をもち続けたいし、それ
は決して不可能ではないと思っています。なぜなら、「人類の希望をつなぐ人々」とい
うのが、確かに存在してくれるからです。
たとえば釈迦やキリスト、時代を下ってナイチンゲール、マハトマ・ガンジー、コルベ
神父、キング牧師、マザーテレサ、ヨハネパウロ2世、ダライラマ14世などの偉大な
人々・・・。
そしてさらには、平和運動、自然保護、災害援助、さまざまな慈善事業、ボランティ
ア、助け合いのサークルなどに携わっている、数えきれないほどたくさんの無名の
人々・・・。
これら、人類の存在に希望を与えてくれる人々がいるからこそ、「人類もまだ
捨てたもんじゃない!」と思うことができます。
そして、そのような人類の一員である「自分の存在」に対しても、誇りに感じると
までは行かなくても、恥や罪悪感を感じる必要はないと思えてくるのです。
たしかに人類は、汚くて醜い生き物です。
しかしだからこそ、それら人類の存在に希望を与えてくれる人々が、「人類の宝石」
に見えてきます。
そして自分も、その「数多くの無名の一員」になれるかも知れないと思うことができ、
何となく自分の存在に「希望」を持つことができるのです。
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