死について 2002年3月26日 寺岡克哉
私は、「死は苦しみではない」と考えています。
確かに、私が自分の死に直面すれば、大変な苦しみと恐怖を感じると思いま
す。しかし完全に死んでしまい、死が完了したならば、「死そのものは苦しみで
はない!」という確信を私は持っています。
なぜなら、死後には一切の認識が存在しないからです。死後に認識が存在し
ないのは、「死とは自分が存在しない状態」だからです。
このように、「自分が存在しない状態」という意味では、「死は生まれる前と
全く同じ状態だ!」と言えます。
だから、死後の状態を考えるには(つまり認識が存在しない状態、自分が存
在しない状態を考えるには)、生まれる前のことを考えてみれば良いのです。
「生まれる前の状態」とは、時間すらも感じることの出来ない状態です。
私が生まれる前には、何億年もの時間が存在していたはずです。しかし私は、
そのような長い時間を、一秒にも感じることが出来ませんでした。
同じように、私の死後に何億年の時間が経っても、私はそれを一秒にも感じ
ることが出来ないと思います。
しかしながら、以下のような主張をする人がいるかも知れません。
「生まれる前の世界は存在しているが、その記憶が生まれる時に消滅してしま
うのだ。だから生まれる前の記憶が無いからといって、生まれる前の世界が存
在しないという証明にはならない。ゆえに死後の世界が存在しないという証明に
もならない!」・・・と。
さらには、「私は生まれる前の記憶を持っている」とか、「私は死後の世界を見
てきた!」などど言う人も、いるかも知れません。
私はそれを否定できません。なぜなら、それを明確に否定できる根拠を持ち合
わせていないからです。
しかし私は、それらを信じることは出来ません。なぜなら、私にはそのような経
験が無いからです。そして大多数の人々も、そのような経験をしていないからで
す。
例えば、死後の世界の存在が科学的に証明されたならば、私もそれを信じな
い訳にはいきません。「科学的に証明される」とは、実験によって、「誰もがその
経験を再現できる」ことを意味するからです。
しかし死後の世界の存在は、まだ科学的には証明されていません。
科学的に証明されず、生まれる前の記憶も、死後の世界の経験もないのに、
「死後の世界を信じろ!」と言うのは不自然で非合理です。
やはり「死後の世界は存在しない!」と考えるのが、いちばん素直で合理的な
考え方だと思います。
私は、大多数の人間が実感として経験できることを根拠にして、「死」について
の考察を行いたいのです。なぜなら、そうしないと多くの人が納得できる考察に
ならないからです。
私が「死」の考察に使う前提は、以下の3つです。
1、「生まれる前」という状態は、現在生きている全ての人間が、既に経験
した事実である。
2、「生まれる前の状態」と「死後の状態」とは、「自分が存在しない状態」
という意味で、全く同じ状態である。
3、「生まれる前の状態」については、「実感」を信じることにする。
以上の3つを認めると、「現在生きている全ての人間が、すでに死を実感
として経験済みなのだ!」ということになります。
今生きている全ての人間が経験済みの「死の実感」とは、次のようなものです。
「死後の世界は存在しません!」 また、「死後の世界が存在しない」ということ
も、実は感じることが出来ません。
死後に苦しみは存在しません。また、「死後に苦しみが存在しない」ということも、
感じることが出来ません。
死んでしまったならば、何百億年という長い時間でも、千分の一秒にも感じるこ
とが出来ません。苦しみなど感じている暇も時間も、全くないのです。
天国も地獄もありません。また、「一人ぼっちの暗黒の世界」なども感じることは
出来ません。
以上が、「死」に対する私の考察の結論です。
ところで、全人類が経験する「熟睡」の状態も、死と全く同じ状態だといえます。
なぜなら、熟睡中は時間を一瞬にも感じないからです。
例えば、もしも私が熟睡中に爆弾で吹き飛ばされるか何かして、即死させられた
としても、私の実感としては、やはり何の変化も感じることが出来ないと思います。
だから「死の状態」と「熟睡の状態」も、人間の感じる実感としては全く同じ状態
なのです。
「死」の場合は肉体も死んでおり、「熟睡」の場合は肉体は生きています。両者
にはこの違いがあります。しかしながら、私たちが実際に経験する「実感」として
は、両者は全く同じ状態です。だから、私たちは毎日のように「死」を経験してい
ると言えるのです。
さらに少しややこしくなりますが、最後の駄目押しとして、「死を実感としては全
く感じることが出来ない」という実感を、「熟睡」などをしなくても意識のある状態
(目覚めて起きている状態)で実感できる方法を紹介しましょう。
今あなたは、この文章を読んでいるのだから、目覚めて意識のある状態です。
そしてこの意識のある状態のまま、自分は一秒間の間に何億回もの「死」と「生」
をくり返していると想定するのです。どうでしょう? 今あなたは、一秒間に何億回
もの「死」を、意識のある状態のままで経験しているはずです。しかしそれを実感
することは、全く出来ないでしょう。
「実感の全く無い状態」とか、「認識の存在しない状態」とか、「完全な無」などと
いう状態、すなわち「死の状態」とは、このようなものであると私は考えています。
だから、もしも私が避けられない死に直面したとき、死ぬまでは大変な苦しみや
恐怖を感じるでしょうが、完全に死んでしまったならば、私は恐怖も苦しみも、天
国も地獄も、暗黒の中の不安や孤独も、全く感じることが出来ないと思います。
以上の考察から、「死」は恐怖でも苦しみでもありません。だから私は、死を必
要以上に怖がることはないと思います。死への恐怖に取り憑かれ、生きる喜び
を台無しにしてしまうのは、あまり賢明ではありません。
また、誤解の無いように注意しますと、「死は苦しみではない!」からといって、
自殺や殺人をやりたい放題にやって良いはずがありません。それは良識と常識
から言って当然のことです。
私が死に対する考察を行ったのは、良識や常識をくつがえすためではありま
せん。
「死への恐怖や苦悩にとらわれることなく、生きている時間を最大限有効に、有
意義に使うべきだ!」と言うことを、あらためて確認するためなのです。
死の考察をここまでして来て、こう言うのも何ですが、死は大した問題ではない
のです。本当に大切な問題は、「生きること」にあるのです。
私は死後の世界を信じませんが、天国や地獄などの死後の世界を信じることに
よって、より良く、正しく、幸福に生きることが出来るというのであれば、私はその
人達の信仰を否定しません。
いちばん大切なのは、「死後の世界が存在するのか否か?」ではなく、「いかに
したら、より良く生きることが出来るのか?」なのですから。
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