幸福を求める意志 2    2005年12月4日 寺岡克哉


 「幸福を求める意志」というのは、人間が幸福を得るための本質的なものでした。
 そしてそれは、人間の生命の原動力であり、人間の生命そのものでした。

 しかし一体どうしたら、「幸福を求める意志」が発動するのでしょう?

 今回は、その話のつづきです。

                * * * * *

 「幸福を求める意志」を発動させるには、二つのアプローチがあるのではないか
と私は思っています。他にもアプローチがあるかも知れませんが、しかし今の私に
思い当たるのは、以下にお話する二つなのです。

 一つは、ある種の「神秘体験」のようなものです。
 それはあるとき突然に、あるいは思索を深めていく過程でだんだんと、「形而上学
的な存在」を認識し、実感するというものです。
 つまり、私がいつも申し上げている「大いなるもの」の存在を認め、それを実感
するのです。

 私たちを存在させ、生かしているもの。
 私たちの存在を認め、赦しているもの。
 私たちの存在を肯定し、愛してくれるもの。
 この世のすべてを「無限の愛」で包みこみ、私たちを温かく見守っているもの。
 直接には、目で見ることも、手で触ることもできないけれど、その存在を「感じる
こと」ができるもの。
 そのような「大いなるもの」の存在を認め、その無限の愛を実感することによっ
て、「幸福を求める意志」を発動させるための「希望」や「光」を見い出すのです。

 ところで・・・ 生きることに疲れ果ててしまう人は、何事も他人に頼ることができず
「すべて自分一人でやらなければならない!」というプレッシャーに、いつもさらされ
ているのではないでしょうか?
 そして、たいへんな「孤独感」や「さみしさ」に苦しんでいるのではないでしょうか?
 そのような苦しみも、「大いなるもの」の力を借りること(他力)によって、和らげる
ことができます。
 つまり、「大いなるもの」による「無限の愛」を実感することにより、孤独やさみしさ
から解放され、生きるエネルギーやパワーをもらうのです。

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 「幸福を求める意志」を発動させるための、もう一つのアプローチ。

 それは、「いつまでも否定的な思考をつづけても、なにも利益がないことを
悟る」
というものです。
 たとえば自己否定に取りつかれ、生きることを辛く感じていると、どうしても
「否定的な考え方」ばかりしてしまいます。
 しかしながら、「否定的な思考」をいくらやっても、自分自身を苦しめるだけで、
なにも利益がありません。

 「生きることが、辛くて辛くてたまらない!」
 「自分なんか、生まれてこなければ良かった!」
 「自分は何をやっても、うまく行かない!」
 「自分はダメな人間だ!」
 「自分には、生きる資格がない!」
 「自分には、存在する意味などない!」
 ・・・ ・・・ 等々。
 このような「否定的な思考」をいくら続けても、問題はなにも解決しないし、事態は
なにも良くならないのです。

 たとえば、「否定的な思考」を何年も、あるいは何十年も延々とつづけ、絶望の
どん底の中のどん底に陥り、泣いても、わめいても、叫んでも・・・。
 しかしそれでも、「否定的な思考」を続けているうちは、決して苦しみから逃れる
ことができません。
 このような、とても深い「心の闇」に落ちるところまで落ちたとき、いつまでも「否定
的な思考」に取りつかれていては、自分自身が苦しむだけで何も利益がないと悟る
のです。

 そして、
 「否定的な思考を続けても、まったく意味がない!」
 「だから、肯定的な思考をしよう!」
 「生きるための希望や光を、積極的に見い出そう!」
という気持ちが生じ、「幸福を求める意志」が発動するのです。

 深い深い「闇」に陥り、生きるか死ぬかというギリギリの所まで追い詰められた
者こそが、恥も外聞もなく、なりふりかまわずに「光」を求めるのではないでしょう
か。私はそのように思います。

                 * * * * *

 以上のような、「否定的な思考」の無益さを悟るアプローチと、「大いなるもの」の
存在を実感して「希望」や「光」を見い出すアプローチ。
 私の場合は、これら二つのアプローチが相互に働きあって、「幸福を求める意志」
が発動したように思えます。



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