「生の価値」と「死の価値」 2005年10月16日 寺岡克哉
ある自殺サイトの掲示板で、
「生きること」と「死ぬこと」の、どちらに価値があるのか?
という趣旨の問いかけを見かけました。
それまで私は、そのようなことを考えても見なかったのでショックを受けました。
「死ぬことよりも、生きることに価値があるのは当たり前だ!」と、何の疑問もなく
思っていたからです。
それで、その問いかけに触発され、私なりに少し考えてみることにしました。
* * * * *
しかし本題に入る前に、「価値」というものについて、少し考えてみたいと思い
ます。
「価値」とは、あると思えばあるし、ないと思えばない・・・
私はそのように思うのです。
たとえば、自分でどんなことを考えても、人からどんなことを提案をされても、「そん
なことに価値などない!」と思ったらそれまでです。つまり「価値」というものには、
「個人的な主観」が多分に入り込んでしまうのです。
だから、
「生きることに価値などない!」
「生命の存在に価値などない!」
「世の中のすべてに、価値など存在しないのだ!」
と思ってしまったら、それまでなのです。
* * * * *
さて本題ですが、「生きること」と「死ぬこと」には、一体どちらに価値があるので
しょう?
上でお話したように、「価値」には個人的な主観が入りますから、私が何を言って
も、「そんなことに価値などない!」と言って否定することは自由です。それを承知
の上で、私の考えをお話してみましょう。
私は、大抵の場合、大部分の人にとっては、死ぬことよりも「生きること」の方に
価値があるのではないかと思っています。
なぜなら、自我意識が存在して、思考や認識、言論、行動などができること(つま
り生きること)の方が、それらが全くできないこと(つまり死ぬこと)よりも、価値が
あると思うからです。
しかしそれも、「思考、認識、言論、行動などに価値はない!」と言われてしまえ
ば、それまでなのですが・・・。
しかしながら、ごく少数の例外として、生きることよりも「死ぬこと」の方に価値が
ある場合も存在すると、私は思っています。
その代表的な例として、「キリストの死」が挙げられるかと思います。
キリストが十字架につけられて死んだからこそ、その教えが2000年にも渡って
人々の間に伝えられ、現在では20億人もの人々に広まったのです。
しかしながら、「キリストの死に価値などない!」と思うことも、まったく個人の自由
です。しかしそれを公言すれば、世界中の20億人を敵に回すことになるでしょう。
* * * * *
ここまでは、「個人的な価値観」に焦点を当てて考えてきました。
しかし価値観には、それとは異なる「社会的な価値観」というのも、たしかに存在
するように思います。これは、「社会における多数派の人間に共通する価値観」
だと思えば、だいたい良いでしょう。
そのような「社会的な価値観」では、死ぬことよりも、生きることの方に価値がある
とされています。そしてそれは、一般常識となっています。
たとえば、「死ぬことよりも、生きることに価値があるのだ!」と世間に向かって
言っても、「そんなのは当たり前だ!」と言われるだけでしょう。
しかしその逆に、「生きることよりも、死ぬことに価値があるのだ!」などと世間に
向かって言おうものなら、周り中から非難をあびたり、自分の精神状態を疑われて
しまうでしょう。
このように価値観には、「個人的な価値観」だけでなく、「社会的な価値観」という
のも確かに存在するのです。
* * * * *
もしも社会的な価値観において、「生きることよりも、死ぬことに価値がある!」
となってしまったら、そのような社会では大勢の人が死に、社会が崩壊し、消滅して
しまうでしょう。
だから「今も存在している社会」の価値観が、「死ぬことよりも、生きることに価値
がある!」となっているのは当然なのです。逆に、そのような価値観をもつ社会だけ
が、いまも生き残って存在しているのです。
ところで社会的な価値観として、「生きることよりも、死ぬことに価値がある!」
となっているような「異常な社会」は、人類の歴史上に存在したのでしょうか?
とても信じられないかも知れませんが、そんな異常な社会が、人類の歴史上には
たしかに存在していました。しかも、かなり身近なところにです。
つまり、太平洋戦争末期の日本がそうだったのです。
その当時の日本では、「一億総玉砕!」などと叫ばれ、生き残ることが「恥」とされ
ていました。
その時代に、「死ぬことよりも、生きることに価値がある!」と世間に向かって言お
うものなら、周り中から「非国民!」と罵られ、袋叩きに合ったことでしょう。
「死ぬことの価値」が社会的に喧伝されるようになったら、その社会はとても異常
で、末期的で、おしまいです。それを私たちは、歴史として経験しているのです。
その後、「命は地球よりも重い!」という言葉が日本人の口から発せられたのも、
そのような過去の反省が影響しているからでしょう。私はその言葉が、単なる個人の
心情や、偶然から発せられたものとは思えないのです。
自殺志願者の人々の中には、「死ぬことの価値」が社会的に認められないことに、
不満や怒りを感じている人もいるでしょう。
しかし社会的には、「死ぬことよりも、生きることに価値がある!」となっている方
が、よほど健全でまともなのです。
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