「生かされている」ということ
2005年10月9日 寺岡克哉
現代に生きる多くの人々。その中でも特に自殺志願者の人々は、まったく自分
の意思で「生きている」のであり、いつでも自分の意思で自由に死ねると考えて
いるのではないでしょうか。
つまり自分の命は、生きるも死ぬも、すべて「自分の意思」でどうにでもなると考え
ていないでしょうか。
たしかにそれは、現代合理主義的な考え方だと思います。だから現代社会では、
そのように考える人がとても多いでしょう。
しかし今回は、そのような考え方に、あえて一つの疑問を投げかけてみたいの
です。
* * * * *
私は、人間を含めたすべての生命は、「生かされている」から生きられるので
あり、生かされていなければ、絶対に生きられないと考えています。
それは一体、どう言うことでしょう?
「生かされている」とは、何のことでしょう?
いったい「誰」によって、生かされていると言うのでしょう?
以下、そのことについてお話したいと思います。
たとえば植物は、光合成によって酸素を作っています。そして私たちは、呼吸に
よってその酸素を吸っています。つまり植物がなければ、私たちは呼吸ができなく
なり、窒息して死んでしまいます。
だから私たちは、植物によって「生かされている」のです。
また、毎日たべる食事について考えてみましょう。
米や麦、野菜や果物などの植物。そして牛や豚、鳥や魚などの動物。これら多く
の生き物によって「生かされている」から、私たちは毎日の食事をとることができ、
生き続けることができるのです。
そしてさらには、米や野菜をつくる農業の人々。牛や豚を育てる畜産業の人々。
魚を獲ったり育てたりする漁業の人々。そして食物を市場に運ぶ運送業の人々。
お店で品物を販売する小売業の人々・・・。これら多くの人々によっても、私たち
は「生かされている」のです。
食物になってくれる植物や動物がいなければ、そしてそれを提供してくれる人々が
いなければ、私たちは生きられません。
そして私たちは、「死ぬことが恐ろしい!」という生存本能によっても、「生かされて
いる」のです。
生存本能は、40億年もの長い時間をかけた「生命進化」によって獲得されたもの
です。つまり、何億世代もの「死にたくない!」という意志が積もりに積もり、それが
延々と受けつがれて、私たちはそのように作られたのです。
「死ぬことが恐ろしくて、なかなか死ねない!」というのは、個人の自由意思の問題
ではありません。それ以外のたくさんの力や作用が40億年間も働きつづけて、そう
感じるようになったのです。だから「死が恐ろしい!」というのが、万人に共通の感情
になっているのです
もしも、「死が恐ろしい!」というのが個人の自由意思の問題ならば、万人の感情
がこれほど一致するはずがありません。ゆえに私たちは、生存本能によって
「生かされている」といえるのです。
自殺未遂もまた、「生かされている」から起こることです。
さまざまなタイミングや偶然、そして幸運・・・。
さらには、自殺者を助けようとした、たくさんの人々の意思や行動。つまり、自殺
者を発見した人、それを通報して救急車を呼んだ人、救急車で病院へ運んだ人、
そして病院の医師や看護士たち、病院を運営し管理する人々・・・。
これら、さまざまな偶然や幸運と、たくさんの人々の意思や行動が働いて
「生かされている」からこそ、自殺が未遂に終わったのです。
私の言う「生かされている」とは、以上のようなことです。
つまり、
この地球に住む、たくさんの植物や動物たち。
40億年の生命進化によって培われた、「死が恐ろしい!」という生存本能。
たくさんの人々の意思や行動。
そして、さまざまなタイミング、偶然、幸運・・・。
それら、いくら自分だけで考えても絶対に説明できない、自分の意思以外の
「不可知の力」がたくさん働いて「生かされている」からこそ、私たちは生きられる
のです。
ただしそれは、自然法則を無視するような「超自然の力」などでは決してありませ
ん。そうではなく、あくまでも自然法則に適ったものです。
* * * * *
ところで、「生かされている」のに無理に死のうとすれば、たいへんな苦しみに見舞
われてしまいます。
自殺未遂を何回も繰り返したり、自殺未遂の後遺症で体が一生不自由になったり、
とても深い心の傷を負ったりします。
いくら生きることが辛くても、死ねない人は死ねません。
いくら死を望んでいても、死ねない人は死ねません。
いくら自殺を決行しても、死ねない人は死ねないのです。
とても理不尽ですが、そのような「現実」が厳然として存在します。
このように死にたくても死ねない人は、「不可知の力」によって「生かされている人」
です。「生かされている強制力」が、とても強く働いている人です。
しかしその強制力は、「死にたい!」という本人の意思に、まったく関わりなく作用
します。なぜならそれは、自分の意思以外の「不可知の力」だからです。だから
そのような力が働いている人は、いくら死のうと思っても死ねないのです。
「生かされている」のに無理に死のうとすれば、いくら悔やんでも悔やみきれない
後悔の念に、一生苦しめられることになりかねません。
* * * * *
ところがその反対に、「生かされなくなった人」というのも、この世にはたくさん存在
します。
たとえば・・・
エイズの母子感染で死んでいく、アフリカの子供たち・・・
飢餓や貧困で、餓死や凍死をする人々・・・
戦争やテロに巻き込まれて死んでしまう人々・・・
大地震や、大津波や、巨大なハリケーンに襲われて死んだ人々・・・
そして、末期のガン患者の人々・・・。
このように、いくら生きたくても生きられずに死んでしまう人が、この世にはたくさん
います。そのような人々は、事件、事故、災害、病気、怪我、貧困、偶然、不運など
のさまざまな要因が働いて、「生かされなく」なってしまったのです。
それを考えれば、死にたいのになかなか死ねないというのは、「生かされて
いる強制力」がとても強く働いているのが分かるでしょう。
私は最近、「生かされなくなった」のに無理に生きようとしたり、「生かされている」
のに無理に死のうとするから、とても大きな「苦しみ」が生じるのだと思うようになり
ました。
無理に生きようとしなくても良いのです!
そして、無理に死のうとしなくても良いのです!
どちらにしても、「生かされている間」は絶対に死ぬことが出来ず、「生かされなく
なった時」は絶対に生きられません。
「生かされている間」は素直に生き、そして「生かされなくなった時」には素直に
死に赴くこと。
それがいちばん自然であり、「無用な苦しみ」の最も少ない生き方なのではないで
しょうか。
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