自殺志願者の不満      2005年9月25日 寺岡克哉


 インターネットで自殺サイトの掲示板を見ると、自殺志願者は以下のようなことに
対して、不満や怒りを感じているように思えます。

 なぜ、死ぬことは恐くて苦しいのか?
 なぜ、自殺に対して「安楽死」は認められないのか?
 なぜ、世間一般では「自殺の自由」が認められないのか?

 これらのことは、心の健康な人には当たり前すぎて、疑問にさえ思わないでしょう。
 しかしここでは、なぜ「この世の中」がそうなっているのかについて、あえて考えて
みたいと思います。

                * * * * *

 死ぬことは、怖くて恐ろしい・・・。
 死ぬことは、辛くて苦しい・・・。
 死ぬことは、さびしくて悲しい・・・。

 なぜ「死ぬこと」は、こんなにも困難なのだ!
 死ぬことがもう少し楽だったら、もっと簡単に自殺ができるのに・・・。
 まず第一に、自殺志願者は、こんな不満を持つのではないでしょうか?

 しかしそれは、「生命の摂理」なので仕方がありません。
 つまりそれは、自然の原理であり、生物の事実であり、生命の真理なのです。
 もしも「死ぬこと」が、怖くも苦しくも何ともなかったら、人間は生きようとさえしない
でしょう。なぜなら「生きること」は、辛く、苦しく、面倒なことだからです。しかしそれ
でも、不平を言いながらしぶしぶ生きているのは、「死ぬこと」の方がさらに怖くて
苦しいからです。
 人間を含めたすべての生物は、まず第一に「死にたくないから生きている」ので
す。そして死にたくない理由は、死ぬことが非常に恐ろしく、とても苦しいからなの
です。

 ところで、もしも「死ぬこと」が苦しくも何ともなかったら、「殺人」が悪である根拠
さえも希薄になってしまうでしょう。
 死ぬことが、まったく恐ろしくも苦しくもなかったら、「生きる苦しみ」から救ってあげ
る分だけ、殺人は「善」と判断されるのではないでしょうか?

 「死ぬこと」が怖くて苦しいのは、生物が「生きるため」にそうなっているのです。
 ゆえに、それは生命の真理であり、「生命の摂理」なのです。
 もしも「死ぬこと」が快楽や喜びであったなら、人類は、いや地球の生命は、とっく
に滅んでいたでしょう。

                * * * * *

 死ぬことは、恐ろしくて苦しい・・・。
 だから自殺志願者は、「安楽死」を喉から手が出るほど欲していることでしょう。
 怖くも、恐ろしくも、苦しくも、痛くも、辛くも、孤独でも、悲しくもない「死」。しかも、
絶対に自殺未遂の危険がない「確実な死」が、自殺志願者の最高の理想であり、
最大の願望ではないでしょうか?

 しかしなぜ、自殺のための「安楽死」は認められないのでしょう。
 現代の医療技術をすこし使えば、いくらでも「安楽死」は実現可能なはずです。
 これも、自殺志願者の不満とするところだと思います。

 しかしながら、それはやはり、「生命の摂理」に反しているのです。だから、
「安楽死」を無制限に自由にすることは、一般的に認められないのだと私は考えて
います
 上でお話したように、死ぬことが苦しいのは「生命の摂理」です。だから、その苦し
みを無制限に取り除くことは、明らかに「生命の摂理」に反しています。
 そして人類の大部分は、「生命の摂理」に従うことを是とし、これに反することを否
とします。それで生命の摂理に反する、「無制限で自由な安楽死」は、一般的に認め
られないのです。

 もしも、「安楽死」が認められる可能性があるとすれば、それは重い怪我や病気
などで「絶対に死ぬ」と決まったときです。「絶対に死ぬ」と決まったならば、もはや
「苦しみ」は無用のものだからです。というのは、苦しみとは「生きるため」にある
からです。

 「絶対に死ぬ」と決まっている場合の「安楽死」は、生命の摂理に反しないと私は
考えています。
 しかし「自殺」の場合は、「絶対に死ぬ」とは決まっていません。むしろその反対に、
自殺を思い止まりさえすれば、絶対に命が助かります。だから自殺のための安楽
死は、明らかに「生命の摂理」に反しており、一般的には認められないのです。

                 * * * * *

 また、なぜ世間一般では、自殺が自由に認められないのでしょう?

 「死にたい」などと言ったら、赤の他人からでも、すぐに止めが入ります。
 そしてひどい場合には、世間から怒りや憎悪さえ向けられてしまいます。
 なぜ、ただ自分の意志で死にたいだけなのに、こんなに肩身の狭い思いをしな
ければならないのでしょう?
 自殺志願者にとっては、これも理解しがたいことであり、世間に対して大きな不満
と怒りを感じるところだと思います。

 しかしこれは、たとえば「殺人」が自由に認められないのと、同じ理由によるもの
だと私は思います。
 なぜなら、「自分の命」だろうと「他人の命」だろうと、「生命の尊厳」という意味
ではまったく同等だからです。つまり自分の命も、他人の命も、命の尊さはまった
く同じだからです。

 だから、他人を自由に殺してはならないのと同じように、自分も自由に殺しては
ならないのです。
 「自分が死にたいのだから、自分を殺してもいいのではないか?」と、思うかも
しれません。しかし例えば、いくら死にたがっている人でも、その人を殺せば殺人
罪になります(刑202 同意殺人罪)。自殺の場合も、それと同じように考えること
ができるかと思います。

 ところで自殺の場合は、自分を殺した犯人(つまり自分自身)の、「死刑」がすで
に実行されたようなものです。それで(かどうか知りませんが)、自殺に刑法上の
罰はありません。
  しかしながら、「自分は死刑になっても良いから、自分の意思で自由に人を
殺す!」というのは、絶対に認められないでしょう。自殺の場合も、それと同じように
考えられると思います。

 「死にたいから、自分の意思で自由に自殺をする!」というのは、第三者から見れ
ば、殺人の加害者に対するのと同じような怒りや憎悪を生じさせるのです。
 そして自殺が既遂されれば、殺人の被害者に対するのと同じような悲しみが生じ
ます。

 殺人の加害者に対する怒りや憎悪、そして被害者に対する哀れみや悲しみ・・・。
 第三者の人間は、自殺者に対して、その両方の感情が渦巻くのです。
 それで世間の人々は、「自殺の自由」を認めずに、止めようとする訳です。



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