愛と哀しみ           2005年9月4日 寺岡克哉


 人間は、いくら一生懸命に生きても、結局最後には死んでしまいます。
 つい先日も、私が子供のときから良くしてくれた、私の父の親友が亡くなりまし
た。心からご冥福をお祈りしたいと思います。

 たいていの人生は、
 いくら仕事に打ち込んでも、定年がくればお払い箱・・・。
 いくら子供や孫ができても、死に行くときは一人きり・・・。
 そして、日々の生きる苦しみに耐えきれず、人生の途中で自ら命を絶ってしまう
人も、世の中にはたくさんいます。

 このように考えると、本当に人間は哀しい生き物だと思ってしまいます。そして
歳を取れば取るほど、そのことが身にしみてきます。
 しかしこれは、人間が「哀しい生き物」というよりは、「自らの哀しさを知っている
生き物」という方が正しいのかも知れません。
 なぜなら、人間以外の動物にも「哀しい状況」はたくさんありますが、彼らは「自己
の生命の哀しさ」など、たぶん知るよしもないからです。

                * * * * *

 たしかに人間は、哀しい生き物かも知れません。
 しかし人類は、その哀しさを何とか克服しようとして、昔から色々な努力をしてきた
のだと思います。

 音楽、詩、文学、彫刻、絵画などの芸術、そして(本当の)宗教や哲学。
 これらは、「人間存在の哀しさ」を克服するために行ってきた、人類の努力の賜物
ではないでしょうか。
 私は、「人間存在の哀しさ」を知るからこそ、芸術や宗教などの本当の大切さや、
真の価値が分かるのだと思います。

 同じように、「人間存在の哀しさ」を知るからこそ、「愛」というものの本当の大切さ
や価値もまた、知ることが出来るのでしょう。
 私は最近になってやっと、「愛」と「哀しみ」が密接に関係していることが、実感と
して分かるようになって来ました。

                * * * * *

 ところで・・・ 怒りや憎しみ、あるいは恨みや妬みの存在は、「愛」の大切さを明確
に証明し、それを力強く主張します。
 なぜなら、怒りや憎しみに駆られていては、いつまでも平和が訪れないからです。
それは、世界各地で起こっているテロや紛争を見れば明らかでしょう。怒りと憎しみ
の連鎖を続けていては、苦しみと不幸が大きくなるばかりです。

 このように怒りや憎しみの存在は、愛の必要性と重要性を力強く語ります。
 しかし怒りや憎しみは、愛の大切さを人間に思い知らせますが、「愛の感情」は
誘発しません。
 怒りや憎しみを完全に捨てさって、はじめて「愛」の生じる可能性が出てくるから
です。心の中に怒りや憎しみが少しでも残っていれば、愛の感情は絶対に生じま
せん。この意味で、怒りや憎しみと愛の関係は、片方が1なら、もう片方は0という、
まったく相反する心の状態だと言えましょう。

 ところが「哀しみ」は、人間に愛の感情を誘発させます。
 「哀しみ」と「愛」には、何か共通する部分というか、連動する部分があるのです。
そこが怒りや憎しみと、哀しみの違うところです。

 人間は、哀しい生き物だからこそ愛しい・・・。
 哀しいからこそ、愛さずにはいられない・・・。
 そのような感情が、人間には確かに存在すると思います。
 このように、「悲しみから生じる愛」というのもあるのです。

 哀れみ、同情、思いやり、いたわり・・・。
 他人の哀しみが分かるからこそ、他人を愛することが出来るのです。

                * * * * *

 ところで・・・
 「哀れみなんかいらない!」
 「慰め合うことなど、単なる傷のなめ合いにすぎない!」
 「同情するぐらいなら金をくれ!」

 私はこのような言葉に、たいへん強い憤りと、生理的な嫌悪を感じます。
 何か人間の根底に関わる大切なものを、根こそぎに踏みにじっているような感じ
がします。

 それが何故だか、今までよく分かりませんでした。
 しかしそれが今、やっと分かって来たのです。
 それは、
 「他人の哀しみを知ろうとする気持ち」とか、
 「他人に同情することの大切さ」
というものを完全に否定し、抹殺しているからです。「哀しみを知ること」により生じ
る「愛の感情の発露」を、まったく塞いでしまっているのです。

 社会に蔓延しているこのような価値観が、「非人情」を世間にはびこらせ、現代
社会における「生き苦しさ」に拍車をかけている気がしてなりません。



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