生命の喜び 2005年8月14日 寺岡克哉
前回でお話した「生命を肯定する人」は、「生命の喜び」を努めて感じようとする
人です。
「生命の喜び」とは、心の底から自然に湧き上がってくる、「生きること」への根源
的な喜びです。つまり「生きていて良かった!」と、本当に心の底から実感させる
喜びです。
私は、この「生命の喜び」を感じようとする努力や姿勢が、とても大切だと考え
ています。
というのは、生きることを否定し、生命の存在を否定する人・・・。
つまり「生命の否定」に取りつかれている人は、「生命の喜び」を感じようとしない
だけでなく、さらにはそれを「意識的に拒絶している」ように思えるからです。
もちろん、ひどい「いじめ」や「虐待」を受けつづけていたり、病気や怪我などで
体が不自由だったりして、「生命の喜び」など感じられるような環境でない人もいる
でしょう。
しかしながら、環境がそれほど悪くもないのに「生命の否定」に激しく取りつかれる
場合は、そのような「意識の問題」が大きく関わっているように思うのです。
それでこれから、
どのようなときに「生命の喜び」を感じるのか? そして、
どのようにしたら「生命の喜び」を感じられるようになるのか?
について、お話して行きたいと思いました。
* * * * *
私が「生命の喜び」を感じるときは、たとえば「赤ちゃんの笑顔」を見たときです。
赤ちゃんの笑顔には、「神」が宿っているのではないかとさえ、私は思うことがあり
ます。つまり赤ちゃんの笑顔には、そのような「大自然から与えられた力」が宿っ
ているように思うのです。
たぶん人間は、「生命の進化」によって、赤ちゃんの笑顔を見ると喜びや幸福を
感じるように作られたのでしょう。つまりそれは、「自然の摂理(せつり)」なのです。
そのような摂理が働いているのは、親や周りの大人が、赤ちゃんの面倒を見たり、
赤ちゃんを守ったりするためです。
ところで、赤ちゃんが笑顔のときは、赤ちゃんが健やかで元気なときです。
お腹が空いたり、体のどこかが痛かったり、体の具合が悪かったりすれば、赤ちゃ
んは決して笑顔になりません。泣いたり、グズついたりします。
赤ちゃんが泣き止まなかったり、病気になったり、怪我をしたりすれば、親はとても
心配し、たいへんに苦しみます。しかしそれも、赤ちゃんを大事に守り育てるための
「自然の摂理」が働いているからです。
人間は、赤ちゃんが元気で健やかなことを願い、それを求めるように作られている
のです。そのようにして、弱い赤ちゃんを守り、面倒を見るように「自然の摂理」が
働いているのです。
だから赤ちゃんが笑顔であれば、(自然の摂理によって)喜びと幸福が私たちに
与えられるのです。
ところで・・・
赤ちゃんは「無意識」です。
周りの人間を喜ばせようとする意思など、まったくありません。
「生きる意味」や「自分の存在価値」なども、まったく考えません。
健やかで元気であれば、それだけで生きることを喜んでいます。
生命を肯定しきっています。
そのような赤ちゃんの姿を見ると、私は本当に、「生命の喜び」を実感させられる
のです。
* * * * *
その他にも、「生命の喜び」を与えてくれるものは、私たちの周りにたくさんあり
ます。
たとえば・・・
木々の緑や、きれいな草花。
イヌやネコなどの、可愛い小動物。
小鳥のさえずりや、虫の声。
青い大空や、白い雲。
大海原や、広大な大地。
風の肌触りや、木々のざわめき。
雨上がりの虹。
日の出、日没、きれいな夕焼け。
満天の星空や、秋の満月。
・・・ ・・・。
・・・ ・・・。
なぜ、これらのものを見たり触れたりすると「生命の喜び」が生じるのか、私には
分かりません。しかし私は、これらのものにも、たしかに「生命の喜び」を感じるの
です。
やはり人間は、「自然の摂理」によって、もともとそのように作られているのでは
ないでしょうか。
しかしそれは、「人間の感性」が変に歪められていなければの話ですが・・・。
* * * * *
私は、「生命の喜び」が感じられる「人間本来の感性」を取りもどすことが、とても
大切だと思っています。
大自然から隔絶されたり、ギスギスとした人間関係によって歪められてしまった、
人間の感性・・・。
それを、人間が本来もっている「自然な感性」にもどすのです。そしてその感性を、
さらに研ぎ澄まして行くのです。
申し訳ありませんが、その方法については次回でお話したいと思います。
目次にもどる