生命を肯定する人      2005年8月7日 寺岡克哉


 生命の否定に取りつかれている人・・・ つまり、
 「生きることは、苦しみでしかない!」
 「ゆえに、生きることは無意味なのだ!」
 「生命の世界は、不幸と殺戮に満ちあふれている!」
 「だから生命など、この世に存在しない方が良いのだ!」
と、かたく信じ込んでいる人。

 そのような人の中には、生命を肯定する人、つまり、
 「生きることは素晴らしい!」
 「この世に生まれて良かった!」
 「この地球に、生命が存在するのは素晴らしい!」
と思っている人を、「能天気な楽天家だ!」というように、ある意味で見下している
ようなところが、あるのではないでしょうか。

 もちろん、生命の否定に取りつかれている人のすべてが、「生命を肯定する人」
を見下しているという訳ではありません。しかしながら、中にはそういう人もいるよう
に思うのです。

                  * * * * *

 その気持ちは、分からなくもありません。たぶん、生命の否定に取りつかれている
人は、生命を肯定している人に対して、
 「人生の苦しみを知らない!」
 「他人の不幸や、痛みを知らない!」
 「無責任な気休めや励ましは、もうたくさんだ!」
 「ただ他人を哀れんで、いい気分に浸っているだけなのだろう!」
と、いうような思いがあるのでしょう。

 たしかに、生きることの苦しみや、他人の不幸を知らないから、
 「生きることは素晴らしい!」
 「生命の存在は素晴らしい!」
と、無邪気に生命を肯定している人も、中にはいるのでしょう。

 しかし私は、あえてここで、苦しみの中から這い上がったからこそ、生命を肯定
する人もいるのだということを、お話したいのです。

 生命の肯定は、能天気な楽天家の「たわごと」などでは決してありません。
 生命を肯定することは、生命を否定すること以上にむずかしく、また努力のいる
ことなのです。

 衣食住には不自由しないけれど、夢や希望を持ちにくくなった現代社会・・・。
 そんな中で、ただ黙って社会に流されていれば、どうしても生命の否定に取り
つかれてしまいます。
 生命の否定は、とくに努力をしなくても自然に取りつかれるのです。というよりは、
なにも努力をしなければ、ある種の社会的な強制力によって、「生命の否定」へと
陥れられるのです。

 一方「生命の肯定」は、社会の流れに逆らうような、つよい意志と努力によって
為されます。
 「生命の肯定」とは、その人間の理性や感性、知識、人生経験などを総動員し、
力の限りをつくして行うものなのです。

                  * * * * *

 しかしなぜ「生命を肯定する人」は、わざわざそこまでして、生命を肯定しようと
するのでしょう?
 それは、「生命の否定」が明らかに間違いであり、「百害あって一利なしだ!」と
いうことを、心の底から思い知っているからです。

 「生きていても意味がない!」
 「生命など、この世に存在しない方がましだ!」
と、いくら生命を否定したところで、状況は悪くなるばかりです。少しも好転しませ
ん。苦しみと不幸が、どんどん大きくなってしまいます。あげくの果ては、「死ぬしか
ない!」とつよく思い込み、そのことに確信を持ってしまいます。

 「生命の否定」に苦しみ抜いた人は、そのことを重々承知し、心の底から思い知っ
ているのです。
 (死に逃げることなく)人生の苦悩を知りつくした者のみが、そして「生命」という
ものの奥深さを理解した者のみが、「生命を肯定すること」の大切さや素晴らしさを
本当に知っているのです。

 だからそのような人は、力の限りをつくして、生命を肯定しようとする訳です。

                  * * * * *

 ところで・・・
 生命の否定に取りつかれている人の中には、「人生を楽しむこと」について
「罪悪感」を持ってしまう人が、いるのではないでしょうか。

 しかしそのような「罪悪感」は、単なる思い込みであり、気のせいです。
 たぶん、自分が楽しんだり喜んだりすれば「ひんしゅく」を買うような環境(家庭、
学校、職場など)に長くいて、そのように思い込まされて(洗脳されて)しまったので
はないでしょうか。

 人生を楽しむのは、悪いことではありません。
 生きることを喜ぶのは、悪いことではありません。
 人を好きになるのは、悪いことではありません。
 「世の中」を好きになることは、決して悪いことではないのです。

 そのことを、最後に申し上げておきたいと思います。



              目次にもどる