自殺について思うこと 2005年7月31日 寺岡克哉
インターネットの自殺掲示板を見ると、「死ねば楽になれる!」とか、「死ねば苦し
みから逃れられる!」と考えている人が、依然として根強くいます。
しかしこれは、たとえば「安楽死」などの問題をみても、「死ねば楽になる」と一般
的に考えるのが普通なので、たとえ自殺志願者がそう考えたとしても無理はないで
しょう。
しかしそれでも私は、「死ねば楽になれる!」というのは単なる「思い込み」であり、
「幻想」であると考えます。なぜなら死後とは、「認識の存在しない世界」だからです。
「死ねば楽になる!」とか、
「死ねば苦しみから逃れられる!」
という実感は、死んでしまった「本人」には、絶対に感じることが出来ないのです。
死ねば楽になったように見えるのは、「生きている他人」から見ればそうなのであっ
て、死んでしまった本人には、そのような実感は絶対に存在しません。
多くの人が「死ねば楽になる」と考えてしまうのは、自分が生きているときに見た
「他人の死んだ状態」が、そのまま自分の死後にも、同じように自分自身にも感じら
れると「錯覚」をしているのです。
* * * * *
ところで・・・
すこし昔に、「いつでも自由に死ねると思えば、反って楽に生きられる!」という
考え方が、流行しかけたことがありました。
今でも、そのように考えている人が結構いるのではないでしょうか? 確かにそれ
も、「生きるため」の一つのアイディアかもしれません。
しかし私は、それも度を越すと、反って有害であると考えています。
なぜなら、「死へのあこがれ」というか、「死への恐怖」という壁が低くなり、ちょっと
したことで自殺を決行してしまう恐れがあるからです。しかも最近では、それが現実
のものとなって来ているように、私には感じられるのです。
今のように自殺者が多くなっては、「いつでも自由に死ねると思えば、反って楽に
生きられる!」などとは、言っておれなくなったように思えます。
* * * * *
自殺志願者の中には、
「死ぬな!」
「とにかく生きろ!」
「死ねば、身内が悲しむぞ!」
「自殺などをしたら、世間に迷惑をかけるぞ!」
「自殺は、反社会的な行為だからやめろ!」
などと言われて自殺を止められることに対し、やりきれない苦痛と、はげしい怒り
や憎悪を感じる人がいます。
それはたぶん、
「社会や世間のために、なぜ自分は我慢して生きなければならないのか?」
「家族や周りの人間が悲しむから、そのために自分は我慢して生きなければなら
ないのか?」
「私には、死ぬ自由もないのか?」
「せっかく死のうとしているのに、無責任に引き止めるな!」
「どうせ生き延びたとしても、自分を救ってはくれないし、楽にしてもくれないのだ
ろう!」
「私が自殺をすれば、あなた達が不愉快な思いをするから、ただそれだけの理由
で私の邪魔をしているのだろう!」
というような「心の叫び」が、自殺志願者の中にあるからだと思います。
* * * * *
しかしなぜ、それでも自殺を止めなければならないのでしょう?
それは、生きてこそ「本当の救い」が得られるからです。
愛、優しさ、安心、労わり、助け合い、喜び、そして救い・・・。これらは、「生きて
いるとき」にしか存在しません。死んでしまったら、それらを感じることも絶対に
できないのです。
だから死んでしまったら、「救われる可能性」が完全にゼロになってしまいます。
しかし生きていれば、「救われる可能性」は絶対に存在するのです。(完全にゼロ
ではないのです。)
そしてまた、「生きていれば、必ず良いことがある!」という言葉にも、怒りと不満
をぶつける自殺志願者がいます。が、しかし、自殺をするギリギリのところを首の皮
一枚で命がつながり、その後10年か20年ぐらい生き続けているうちに、「どうして
あの時、自分はあんなに死のうと思ったのか?」と、疑問に思ってしまうことなどザラ
にある話なのです。
「本当の救い」は、たしかに実在します。私は、そのことに確信を持っています。
だから私は、自殺を止めるべきだと思っているのです。
もしも「救い」が存在しなかったら、それこそ他人のエゴのために生きることを強制
し、いたずらに苦しませているだけです。そんなことでは私も、自殺を止める根拠は
ないと考えてしまうでしょう。
おせっかいに思われても、怒りや憎しみをぶつけられても、自殺を止めるべき
理由はここにあると、私は思っています。
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