全ての愛は自己愛から始まる
2002年6月16日 寺岡克哉
一体どうしたら、
「生きることは素晴らしい!」
「この世に生まれて良かった!」
と、本当に心の底から実感できるのでしょう?
一体どうやったら、
生きる意味や生きる目的を見いだし、生きがいを感じて、いきいきと生きること
が出来るのでしょう?
私はずいぶん長い間・・・ かれこれ15年ぐらい、そのことについて色々と考え
てきました。
その結果、最終的に得られた答えは結局、
自分を愛し、隣人を愛し、人類を愛し、他のすべての生命を愛すること。
それより他に、方法がないように思いました。
そして、その中でもいちばん大切なことは、自分を愛すること。つまり自己
愛を持つことです。なぜなら、すべての愛は自己愛から始まるからです。
まず最初に、自分を愛することが出来てはじめて、隣人や、他の生命を愛する
ことが出来るのです。
それは、自分自身を憎んでいる人間、つまり自己否定に取りつかれた人間は、
隣人を愛したり、他の生命を愛することなど、とても出来ないので分かります。
* * * * *
実は・・・ 私は以前、自己否定に取りつかれて苦しんでいました。
自己否定に取りつかれると、隣人を愛することも、他の生命を愛することも出来
ません。それは以前の体験から、たいへん良く分かるのです。
私が自己否定に取りつかれていたときは、「自分は不幸な人間だ!」と、いつも
思い込んでいました。だから私は、自分の周りに幸福そうな人間がいるのを、絶対
に許せませんでした。
「自分がこんなに苦しんでいるのに、周りの人間が幸福なのは許せない!」という
気持ちが、たいへん強かったのです。
自己否定に取りつかれると、どうしても他人の幸福をうらやみ、妬み、憎んでしま
います。そして、他人の不幸や苦しみを、自分の喜びとしてしまうのです。
また、私が自己否定に取りつかれていたときは、自分に実力も自信もないのに、
自意識だけはとても強く、つねに自分と他人を比べてコンプレックスを持っていま
した。
だから私は、自分にコンプレックスを感じさせる「世間の人々」を、いつも憎んで
いました。つまり、何となく世の中が面白くなく、なぜか人間を見ると、いつもイライラ
してしまうのです。
私は思うのですが・・・
あまりにも激しく自己否定に取りつかれると、そのような「世間に対するやりきれ
ない憎悪」がついに爆発し、あたり構わず周りの人間にぶつけてしまうのではない
でしょうか?
そして、家庭で暴力をふるったり、自分の子供を虐待したり、無差別な殺傷事件
を起こしたりするのではないでしょうか?
また、動物の虐待なども、その根底には「自己否定」が潜んでいるのではないで
しょうか?
以上のように、自己否定に取りつかれていては、隣人を愛することも、他の生命
を愛することも不可能です。
だからまず第一に、自己否定をやめて自分自身を愛すること。つまり自己愛を
持つことから、すべてが始まるのです。
* * * * *
すべての愛は、自己愛から始まります。
自己愛をもてば、生きる力が自然に湧いてきます。
自己愛をもてば、生きる意味や、生きる目的が見えてきます。
自己愛をもてば、生きがいを感じて、いきいきと生きることができます。
自己愛をもてば、
「生きることは素晴らしい!」
「この世に生まれて良かった!」
と、本当に心の底から実感できるのです。
そして自己愛がさらに、「隣人愛」や「すべての生命への愛」に発展すると、
隣人やすべての生命が、この地球で自分と同じように生きているのが、嬉しくて
嬉しくて仕方がなくなります。
「生命」というものの存在が、とても素晴らしく思えて来ます。そしてそれが、涙が
出るほどありがたく感じます。
すべての人間と、すべての生命の幸福を心から望むようになり、それを少しでも
実現させて行くことが、自分の幸福のすべてになるのです。
すべての愛は、自己愛から始まります。
キリストは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言いました。しかしこの言葉にお
いても、まずはじめに自己愛を持っていることが、すでに前提となっているのです。
* * * * *
しかし、一体どうやったら、自己愛を持つことが出来るのでしょう?
実はこれが、そんなに簡単なことではありません。たいへん難しいことなのです。
とくに、自己否定に取りつかれて苦しんでいる人には、なおさらそうです。
しかしこれは、避けて通ることのできない、とても大切なテーマです。だから今後、
自己愛を持つための方法について、さまざまな側面からじっくりと考えて行きたいと
思います。
(このエッセイは、2005年5月14日に書き直しました。)
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