執着について 2005年4月3日 寺岡克哉
仏教もキリスト教も、「執着を捨てなさい!」と人々に説いています。
以下は、仏教経典のダンマパダ(真理のことば)と、新約聖書の中にある
言葉です。
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「私には子がある。私には財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに、
自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして
財産が自分のものであろうか。 (真理のことば 岩波文庫 5章62)
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「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自
分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばす
ことができようか。」 (新約聖書 マタイによる福音書 6章25、27)
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このように仏教もキリスト教も、「執着」については、だいたい同じことを説いて
いるのです。
私は、上の言葉をまとめて次のように理解しています。
・・・ すでに自分自身が、自分の寿命が、自分の命が、自分の思い通りになる
ものではない(自分のものではない)。ましてや、衣食住、富、財産、子供、妻、
夫、恋人、友人、あるいは権力、名声、名誉などが、自分の思い通りになるはず
がない(自分のものであるはずがない)。だから、それらに執着して思い悩むの
はやめなさい・・・。
* * * * *
たしかに上の言葉には、納得できるところが多々あります。
しかし私は今まで、人間が「執着を捨ててしまうこと」に対して、大きな疑問を
感じていたのです。
なぜなら、
自分の命に執着しなければ、人間はすぐに死んでしまうではないか!
異性や子供に執着すなければ、人類は子孫を残さずに滅んでしまうではな
いか!
富や財産に執着しなければ、いつまでも飢えや貧困に苦しめられるではな
いか!
というような問題が、ただちに起こるからです。
だから私は、こう思っていました。
人間には「執着」があったからこそ、人類は力強く生きぬき、子孫を繁栄させ、
めざましい進歩と発展をとげることが出来たのだ。
たとえば釈迦やキリストだって、「人類を救わなければならない!」という、とて
も大きな執着を持っていたはずだ。だからこそ、あのような偉大なことを成しとげ
たのだ。そしてそれは、学問や芸術など、あらゆる分野の偉人たちについても
同様だ。
そしてそもそも、すべての執着を完全に捨て去ってしまったら、人間は生きよう
とさえしないだろう。何か少しでも辛いことがあれば、すぐに生きるのが面倒に
なり、自殺をしてしまうに違いない。
人間が執着を捨てるなど、まったくナンセンスだ!
* * * * *
ところが最近になって、「執着を捨てること」にも、肯定的な意味があると思える
ようになってきました。
というのは、「自己に執着しているからこそ、生きることが辛くなるのでは
ないか?」ということに、はたと気がついたからです。
実際、今までの私をふり返ってみても、生きることを辛く感じるときは、「自己に
執着しているとき」が多々ありました。
たとえば・・・
結婚を考えるほど好きになった女性に、思いきって告白をしたけれども失恋
したとき。
仕事が山ほどあるのにぜんぜん片付かず、とても疲れているのに、仕事が
どんどん溜まる一方のとき。
過去に犯した失敗や過失、過去に受けた屈辱などを思い出し、それが頭から
離れないとき。
そのようなときに、私は生きることを辛く感じていました。そしてそれを、周りの
人間や環境のせいにしていたのです。
しかし最近になって、これらの苦しみは、
「自分の現実を認めようとしないこと」に執着していること。
自分の思い描く、「自分の理想」に執着していること。
「自分のプライド」に執着していること。
つまり「自己への執着」が、本当の原因だったことに気がついたのです。
すべての執着は、結局、自己に執着しているのだと思います。
そして「自己への執着」が、自分自身をがんじがらめに縛りつけ、身動きができ
なくなるほど人生を窮屈にし、たいへんな生き苦しさを感じさせるのです。
さらには「自己への執着」が、自分の生命をも滅ぼしてしまうことさえあります。
たとえば自殺の原因には、自分の現実を認めることが出来なかったり、自分の
理想があまりにも高すぎて現実とのギャップに耐えられなかったり、自分のプラ
イドが高すぎて屈辱に耐えられなかったりというのが、結構あるのではないでしょ
うか。
いつまでも自己に執着していれば、がんじがらめの窮屈さと、終わることのない
苦悩がつきまとうだけなのです。
* * * * *
執着を捨てたところに、大いなる自由と安らぎがあります。
執着を捨てることにより、「大いなる無限の愛」を実感することができます。
執着を捨ててこそ、「大いなる生命」を得ることができるのです!
このような「人間の真の幸福」は、それを「求めること」によって得られるというよ
りは、むしろ「執着を捨てること」によって得られるのではないでしょうか。最近
そのことが、だんだん分かるようになって来ました。
「執着を捨てること」には、正しい捨て方と、間違った捨て方があるのだと思い
ます。
生きることに無関心になり、生きる意欲を失い、すべて投げやりになるような
執着の捨て方は、「間違った捨て方」です。
自己に束縛されることなく、自由にいきいきと、生きる意欲と生きがいをもち、
大いなる愛を実感し、心の底から安心して生きるために、執着をすてること。
それが、「執着の正しい捨て方」なのです。
執着を捨てるように仏教やキリスト教が説いているのは、たぶんそう言うこと
だと思います。
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