「きびしい」ということ 2005年1月30日 寺岡克哉
日本人の心の底には、「きびしい」のが良いことだとか、「きびしさ」に耐えること
が美徳だというような価値観はないでしょうか。
そしてそれが、きびしい競争社会を作り出したり、過労死や過労自殺をひき起こ
す土壌になっているのではないでしょうか。
もちろん私は、「きびしさ」をすべて否定する訳ではありません。
人生には、「ある程度のきびしさ」はつねに必要です。そしてときには、非常に
きびしいことであっても、「絶対に必要なきびしさ」というのもあるでしょう。
しかしながら・・・
「きびしい躾(しつけ)」と称して行われる、子供への虐待。
「きびしい職場」で起こる、過労死や過労自殺。
さらに戦時中の日本では、「きびしい生活に耐え、戦争に勝たなければならな
い!」などと、叫ばれていたのではないでしょうか。
そのようなことを考えると、「きびしさ」をただ美徳として受け入れるのには、
問題があると思うのです。
ここでは、この「きびしい」ということについて、すこし考えてみたいと思います。
* * * * *
生きることは、根本的に「きびしい」のだと、私は思います。
生きていれば、どんな人でも「生きるきびしさ」を感じると思います。
ひとり一人のそれぞれが、「人生のきびしさ」を抱えているのです。
「きびしさ」とは、そのようなものだと私は思います。
たとえばスポーツの世界は、一般的に「きびしい」と思われています。プロの
スポーツ選手になるのは、「きびしい人生」の代表格ではないでしょうか。
そして一方、ふつうのサラリーマンになるのは、「楽な人生」の典型ではないで
しょうか。
しかし私は、プロのスポーツ選手が過労死や過労自殺をしたという話を、聞い
たことがありません。ところが、サラリーマンの過労死や過労自殺は、よく聞くの
です。
それを考えるとき、本当はどちらの人生がきびしいのかと、私は疑問を感じてし
まいます。
もちろん、プロスポーツの世界全体と、サラリーマンの世界全体とを比べれば、
一般的にはスポーツの世界の方がきびしいのでしょう。
しかし、「人生のきびしさ」は人それぞれなのです。一人ひとりの人間として見れ
ば、プロのスポーツ選手よりもきびしい人生のサラリーマンというのが、たしかに
存在するはずです。
ところで、重い病気を患っていたり、ひどい怪我をしたり、目や耳や手足の不自
由な人が、きびしい人生を歩んでいるのは良く分かります。
また、戦争や災害に巻きこまれて難民となり、衣食住や医療設備が不足してい
る人々も、きびしい生活を強いられているでしょう。
しかし、いじめに会っていたり、不登校や引きこもりになってしまった人も、かな
りきびしい人生を歩んでいるのではないでしょうか。
日本の社会では、周りから非難の目をあびるのは「とてもきびしい」ことです。
不登校や引きこもりになった人もさることながら、とくに、企業や官庁の不正を
内部告発した人などは、かなりきびしい状況に追いやられているのではないで
しょうか。
「人生のきびしさ」は、人それぞれです。そして他人のきびしさは、自分には
なかなか分かりません。「きびしい」ということには、そのような性質があると
思うのです。
* * * * *
ある一つのことだけに異常にきびしいと、他のことが全くデタラメになってしまう
・・・。 「きびしさ」には、そんな一面もあるように思えます。
家庭や生活のことを、まったく顧みない仕事人間。(企業戦士もさることながら、
学者や芸術家などもこの部類に入るでしょう。)
きびしい競争社会を勝ち抜いたはいいが、人としてのモラルをまったく欠いた、
企業や官庁の上層部。
もちろん、全てがそうと言うわけではありません。しかし「きびしさ」には、確かに
そのような一面もあると思います。
また、「きびしさ」には、ある一つのきびしさから逃れようとすれば、別のきびしさ
が強くなるという性質もあります。
たとえば、引きこもりやホームレスになってしまった人は、「労働のきびしさ」から
は完全に解放されています。しかしながら、人生や将来に対する不安、恐れ、絶
望などの「きびしさ」が襲ってくるのです。
あるいは逆に、サラリーマンの場合は、「失業者になるきびしさ」から逃れようと
して、過労死や過労自殺をするまで必死になるのではないでしょうか。
このように人生は、ある一つのきびしさから逃れようとすれば、今度は別のきび
しさが襲ってくるのです。
ところで・・・ 他人の罪を赦したり、優しさや思いやりの心を持つことも、ある種
の「きびしさ」があります。
怒りや憎しみの心を静めること。
暴力による、復讐や制裁を思いとどまること。
これらは、それらを野放しにするよりも、遥かにきびしいことです。とくに、犯罪
や戦争に巻き込まれた被害者にはなおさらです。
* * * * *
「きびしさ」には、「有益なきびしさ」と「有害なきびしさ」があるのです。
過労死や過労自殺をするまで働くこと。
体を壊してまで、ダイエットに励むこと。
不正や犯罪を犯してまで、激しい競争に勝とうとすること。
これらの「きびしさ」は、明らかに有害です。さらには戦時中の日本のように、
きびしさに耐えることが、巨大な悪を増長させてしまうことさえあるのです。
ただひたすら「きびしさに耐えること」が、美徳なのではありません。
「有益なきびしさ」に耐え、何か素晴らしいことを成し遂げたり、それに貢献する
こと。そうなってこそ、きびしさに耐えることが美徳となるのです。
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