理神論について        2005年1月16日 寺岡克哉


 私は最近、「理神論(りしんろん)」というのを知りました。
 理神論とは、17世紀から18世紀のヨーロッパに現れた、神に対する一つの考え方
です。理神論は、「この宇宙を作ったもの」としての「神の存在」を認めます。しかし、
神の人格性は認めず、超自然的な奇跡の力も否定します。
 理神論による「神」は、あくまでも自然の法則にしたがう「理性的な神」であり、信仰
は理性の範囲に限定されるのです。

 これは、つねづね私が考えていた神のイメージと、まるで同じだと思いました。
 神について、私と同じように考えた人々がいたのです! それで嬉しくなり、理神論
について少しお話したくなりました。

 しかし私は、理神論についてちょっと調べただけで、詳しく勉強をしたわけではあり
ません。だから、もしかしたら間違ったことを言うかもしれません。
 もしも誰かが理神論について詳しく知っていて、私の間違いに気づいた方がおられ
ましたら、知らせて頂ければ幸いです。

 とにかく今回は、私が知っている範囲で、理神論について思ったことをお話してみ
ます。

                 * * * * *

 「理神論」という言葉を辞書で調べると、
 「世界の根源としての神の存在を認めはするが、これを人格的な主宰者とは考え
ず、従って奇跡や啓示の存在を否定する説。」 (広辞苑 岩波書店)
 と、なっています。
 以下これについて、私の思ったことをお話してみます。

 世界の根源としての神の存在を認める・・・ 私は、この考え方に賛成です。
 私は、「神」というものを、
 「この宇宙を作った、大いなるもの」
 「この宇宙のすべてを、今在るようにしているもの」
 「宇宙の全体をつかさどる、宇宙の原理、大自然の法則、宇宙の摂理」
というように、考えているからです。

 神を人格的な主宰者(主となって司る者)とは考えない・・・ 私は、この考え方に
も賛成です。
 人間的な「人格」などに、宇宙のすべてを司ることなど、とても出来るわけがない
からです。神は、人間の人格などをはるかに超えた存在です。人間の人格などに、
神が収まりきれるはずがないのです。

 奇跡や啓示の存在を否定する・・・ この考え方にも、私は賛成です。
 宇宙全体をつかさどる「神の働き」は、あくまでも自然法則に従った作用や働き
です。だから、それを超えた超自然的な「奇跡」や「啓示」など、存在するわけがない
のです。

 たしかに、宇宙や生命の誕生などは、「奇跡」に違いありません。
 しかしそれは、信じられないほどの偶然に起こった出来事が、無限につみ重なっ
て起こった奇跡なのです。その一つひとつの出来事は、たいへん偶然に起こったと
はいえ、あくまでも自然法則で許された範囲の出来事です。だからこれらの奇跡は、
決して「超自然的な力」ではないのです。

 このように理神論における神は、「理性的な神」であり「科学的な神」です。だから
宗教アレルギーの人でも、理神論という「理性宗教」ならば、受け入れることが出来
るのではないでしょうか。

                 * * * * *

 今お話しましたように、理神論における神は、私の考えている神と、同じところが
じつに多いのです。しかしながら、多少ちがう所もあります。

 それは、理神論は「理性宗教」であり、信仰はあくまでも理性の範囲に限定される
ところです。
 しかし私は、これに対して、信仰には「感性的な要素」も必要だと思っているの
です。
 この宇宙全体を包み込んでいる「神の無限の愛」・・・。そのような大いなる愛を
「感性」によって実感できた方が、私は心の底から安心できるし、生きる喜びが湧き、
幸せな気分になれるからです。

 また理神論では、神は宇宙の支配者ではなく、いちど宇宙が作られたあとは、宇宙
は自ら変化し、進化していくと考えるようです。
 たしかに私も、神がすべてを完全に支配している訳ではないと思います。なぜなら
私の思考や言動のすべてまでが、神に完全に支配されているとは、とても思えない
からです。
 神は、あるていどの自由度(自然法則の範囲内で許された自由度)を、この宇宙
や生命に認めていると思います。

 しかし私は、神は大いなる見えない力で、この宇宙全体を、そして生命全体を、
「ある方向へ導いている」という感じがするのです。
 この宇宙全体を、大自然の法則に従って変化し、進化するように。
 そして生命の場合は、
 できる限り、多くの生命が存在するように。
 できる限り、永遠に生命が存在するように。
 さらには、生命が「生命としての理想」をつねに追い続け、生命が「より善い存在」
になるように。
 そのように、神は導いているような気がします。

 つまり宇宙の進化や生命の進化は、まったく自分勝手に進化しているのではなく、
何かの大いなる作用や働き、大自然の法則、生命の摂理によって、「ある方向に
導かれている」という感じが私はどうしてもするのです。

 ここら辺が、理神論における神と、私の考えている神の違うところです。

                * * * * *

 ところで、「理神論」と反対の言葉は「有神論」です。

 有神論とは、
 「世界を超越して存在し、世界を創造し、世界に自己の摂理を働かせている人格
的な唯一の神を信ずる立場。」 (広辞苑 岩波書店)
 と、いうものです。

 私の考えている神は、理神論における神からほんの少しだけ、有神論に傾いて
いるのかも知れません。



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