運命について          2005年1月9日 寺岡克哉


 私は今まで、「運命の存在」など、まったく認めていませんでした。
 自分の運命など、自分の努力しだいで、どうにでもなると思っていました。
 「運命」の話をいつも持ちだすような人間は、自分の可能性や努力を否定し、現状
に甘んじている人間。あるいは、占いや縁起物を売って金儲けをするような人間だと
思っていました。
 しかし最近は、「運命」というものの存在も、認めなければならないと思うようになっ
たのです。

                 * * * * *

 私も40歳を過ぎると、自分よりも若くして死ぬ人がたくさんいることに、悲しさという
か、いたたまれなさを感じるようになります。
 生まれて数ヶ月の赤ん坊や、10歳にも満たない小さな子供達が、虐待を受けて
殺されたり、あるいは犯罪に巻き込まれて殺されています。
 また世界に目を向ければ、テロ、戦争、貧困、エイズの母子感染などで、じつに
多くの子供たちが死んでいきます。
 これらの子供たちを目にすると、「私はなぜ、この日本の、この家庭に生まれること
ができたのか?」と、その不思議さを感じるのです。
 たとえば私は、虐待を受ける家庭に生まれたり、テロや戦争、貧困、エイズが蔓延
している国に生まれても、ぜんぜんおかしくはなかったのです。
 そのようなことを考えるとき、私は「運命の存在」をつよく感じるのです。

 また、この歳になると、自分の力ではどうにもならないことが沢山あるのに、いやと
いうほど思い知らされます。
 例えばついこの前、スマトラ巨大地震の大津波に巻きこまれて、たくさんの人々が
亡くなりました。
 甚大な被害がインド洋沿岸の国々で起こり、復旧のめどは今もついていません。
あのような巨大地震や大津波の前では、人間は為すすべもないのです。

 私なんかが、いくら死ぬほどの努力をしてみたところで、あの大津波を止められる
わけがありません。
 そんなことを考えるとき、私は「運命の影響力」の凄まじさを感じるのです。

 (当時の危機管理の状況下で)あの大津波は、地元の人々にとって、どうしても
避けられない運命だったのだと思います。だからそれは「仕方のない運命」として、
まだ地元の人々は受け入れることが可能なのではないかと思います。
 (しかしこれは、津波の被害を肯定しているわけではありません。そこを誤解され
ませんように。)

 しかし、「皮肉な運命」のいたたまれなさを感じるのは、たくさんの観光客の人々も
犠牲になったことです。
 彼らは、あの地域で生活をしていたわけではないし、あの地域にどうしても行かな
ければならない理由もありませんでした。彼らは、ただあの地域に旅行さえしなけれ
ば、死なずに済んだ人々なのです。
 そのようなことを思うとき、私は「運命の皮肉さ」を感じてしまいます。

                  * * * * *

 ところで、私の人生をふりかえってみても、「あのとき運が悪ければ、ひょっとしたら
大怪我をしたり、死んでもおかしくなかった!」と、思えることが何度かありました。

 それは例えば・・・
 岩登りをしていて宙吊り状態になり、身動きができなくなったとき。
 (この話に興味のある方は、エッセイ141をご覧下さい。)

 冬山の単独登山で吹雪に迷い、自分の位置も、目的地の方向も、まったく分から
なくなったとき。
 (もうダメだ! と思ったとき、目の前に山小屋があって助かりました。自分のルー
トは間違っていなかったのです。しかし猛吹雪のため、10メートル先も見えなかった
のです。小屋の近くに来たとき、一瞬だけ風が止んだので小屋を見つけることがで
きました。もしもあのとき風が止まなければ、小屋を発見できずに通り過ぎていたと
思います。)

 雪渓(雪に埋まった谷)を登っていて、落石に会ったとき。
 (あのときは、人間の頭ぐらいの大きな石が跳びはねながら、自分に向かって10
コから20コぐらい落ちてきました。一つでも私の頭を直撃していたら、まちがいなく
即死していたでしょう。幸いなことに、私の体には一つの石もあたりませんでした。)

 落雷に会ったとき。
 (山小屋から外に出た瞬間に、周りのすべてが閃光につつまれ、ガガガーンという
衝撃音がしました。後ろをふりかえると、山小屋のドアが壊れていました。雷の落ち
たのが、ドアの金属部分だったので助かったのです。)

 滝登りをしていて落ちたとき。
 (滝の下まで落ちず、途中で体が引っかかったので助かりました。)

 もっと身近な例では、交差点の横断歩道を青信号で渡ろうとしたときに、左折車に
巻き込まれそうになったことがあります。
 私は信号機しか目に入っておらず、ハッと気がついたときには、自分のすぐ前
30センチぐらいのところを、車が猛スピードで通り過ぎていました。もしもあのとき車
にひかれていたら、多分、自分が死ぬことさえ気がつかなかったと思います。

 これらのことを思い出すとき、私にも「運命の偶然」というものが、ずいぶん働いて
いたのだなあと実感します。

                   * * * * *

 ところで私は、何でもかんでも「運命」のせいにして、自分の可能性や努力のすべて
を否定する態度には、断固として反対します。
 また、いろいろな占いや、「幸運グッズ」などの縁起物を売って金を儲けることも、
(私はおみくじが好きなのですが)あまり感心はしません。

 しかし、自分ではどうにもできない力や偶然がたくさん働いて、今ここで自分が生か
されていることも、否定のできない厳然たる事実です。
 そしてそれは、宇宙の誕生から、地球や生命の誕生、そして生命進化による人類の
誕生などに思いを馳せれば、なおさら納得してしまいます。

 「私たちが今ここに存在している」というそのことが、じつは奇跡的な運命なの
です!

 しかしそれは、宇宙の誕生したときから「すでに決まっていた運命」などではありま
せん。決してそうではないのです。なぜなら、まったく予測のできない偶然が無限に
重なって、今ここに私たちが存在するからです。
 しかしながら、「今ここに私たちが存在する」という事実そのものは、「運命」以外の
何ものでもないのです。

 私は近ごろ、そのことを身にしみて実感するようになりました。それで、「運命の
存在」を認める心境になったのだと思います。



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