「外なる神」と「内なる神」 2005年1月2日 寺岡克哉
私は、神について考えるのが大好きです。
そしてまた、「座禅」や「祈り」によって神のことを瞑想し、「神の存在」を心と体の
全体で実感することも大好きです。
「神の存在」を実感すると、心と体のすべてに「生きるエネルギー」が満ちあふれて
きます。生きる希望と勇気が、心の底から湧きあがってきます。
私が今ここに存在することと、この宇宙のすべてが存在することが、嬉しくて嬉しく
て仕方がなくなります。そしてそれが、涙の出るほどありがたく感じてきます。
とにかく私は、「神の存在」を実感すればとても幸福になるのです。
それで私は、(1日に30分程度ですが)毎日のように神のことを考え、神について
瞑想をしています。
ところで、そんな日々を続けるうちに気がついたのですが、神には「外なる神」と
「内なる神」の、二つがあるのではないかと感じるようになりました。
今回は、そのことについてお話したいと思います。
* * * * *
まず一つ目の、「外なる神」とは、
「この宇宙を作ったもの」とか、
「宇宙のすべてを在らしめるもの」とか、
「宇宙のすべてを司る原理」としての神です。
「外なる神」は、この宇宙を作った神であり、時間、空間、エネルギー、素粒子、
原子、銀河系、太陽系、地球、生命、人類、意識などを作り出した神です。
この「外なる神」は、宇宙の全体に広がっています。というよりは、この宇宙全体
をも、まるで小さな赤ん坊を抱きしめるように包み込んでいるはずです。
なぜなら「外なる神」は、「この宇宙を作ったもの」なので、この宇宙よりもずっと
ずっと大きな存在のはずだからです。
ところで私は、「愛」とは「存在の肯定」であると考えています。
愛する人、愛する家族、愛する動物や植物、愛する組織、愛する国家、愛する
地球・・・。これら「愛するもの」はみな、いつまでも存在することを望むからです。
つまりそれは、「その存在を肯定している」のです。
その反対に、「憎しみ」は「存在の否定」です。憎い人間、憎い組織、憎い民族、
憎い国家・・・。これら「憎いもの」はみな、それらが消滅することを望み、その存在
を否定しています。
このように、「存在の否定」が「憎しみ」であることを考えれば、「存在の肯定」が
「愛」であるのが分かります。
神は、この宇宙の存在を肯定しています。
神は、この宇宙に存在する全てのものが、存在することを望み、それを肯定して
いるのです。もしもそうでなければ、そもそも宇宙が存在するはずがないからです。
「この宇宙が存在している!」というその事実がまさに、「神」が宇宙の存在を肯定
していることの、絶対的な証拠なのです。そして今お話したように、「存在の肯定」
とは「愛」でした。
つまり神は、「この宇宙のすべてを愛している」のです!
ところで神には、「具体的な実体」というものがありません。
つまり神は、見ることも触ることもできないし、「これが神だ!」と具体的に示すこと
もできません。
だから神は、「宇宙の存在を肯定する者」とか「宇宙のすべてを愛する者」と言うよ
りは、むしろ「存在の肯定そのもの」とか「愛そのもの」と考える方が、本当なのかも
しれません。
そのように考えると、「神」とは宇宙全体に広がっている「無限の愛」。いや、この
宇宙全体をも赤子を抱きしめるように包み込んでいる、この宇宙よりもずっとずっと
大きな「超無限的な愛」。
そのようなものが、「外なる神」なのだと私は考えています。
「外なる神」は、私たちが見上げる神です。「天の高いところに存在する」という
イメージの神です。
大空のはるか彼方、宇宙の果てまでも広がっている神です。いやそれ以上の、
この宇宙全体をも包み込むような、とてもとても大きな神なのです。
* * * * *
一方、二つ目の「内なる神」とは、「自分の中に存在する神」です。
それは、瞑想によって心の中に生じる「無限の愛しさ」です。
このような「無限の愛しさ」も神と考えてよいのではないかと、近ごろ私は思うよう
になりました。
内なる神(無限の愛しさ)とは、「最愛の異性と”ギユーッ”とつよく抱きしめあい、
身も心もひとつに溶け合ってしまいたい!」というような「愛しい思い」を、瞑想によっ
て無限に高めたものです。
瞑想によって「愛しい思い」がいちど心の中に生じると、「愛しい思い」が「愛しい
思い」をつのらせ、「愛しい思い」がどんどん無限につよくなって行きます。
それはちょうど、「片思いの恋」をしたときに、恋心が恋心をどんどんつのらせ、
「恋しい思い」が無限につよくなって行くのと似ています。
そのような心の状態になると、精神が「ギユーッ」と一点に集中して、なにも考えら
れなくなってしまいます。
ただ「ギユーッ」といつまでも抱きしめたくなるような、「無限の愛しい思い」だけが
心の中に存在するのです。
だからこの愛しさには、「具体的な愛しいもの」が存在するわけではありません。
恋人、子供、家族、友人、動物、植物、大自然、地球・・・。そのような、「具体的な
もの」が愛しいわけではないのです。
ただ、心の中に「無限の愛しさ」だけが存在し、それが「自分のすべて」に
なってしまうのです!
自分の心の中にだけ存在し、実感することはできるけど、見ることも触ることもで
きない「無限の愛しさ」。
具体的な対象も、具体的なイメージも存在しない「無限の愛しさ」。
私は、そのような「無限の愛しさ」が「自分のすべて」になるとき、「神と自分が
一体になった!」という実感がするのです。
それで、この「無限の愛しさ」が、「内なる神」だと考えるようになりました。
* * * * *
ところで私の理想としては、「外なる神」も「内なる神」も、一つに融合されるべきだ
と考えています。
というのは、「自分の外」とか「自分の内」とか、そのような区別が存在しないのが、
本当の理想だと思うからです。
しかしながら、「自分の外」と「自分の内」の区別をなくしてしまえば、「自分そのもの」
も無くなってしまうようで、少し怖い感じがしないでもありません。
なぜなら、「自分の外」と「自分の内」を区別することにより、「自分の存在」というも
のがはっきりと認識されるからです。
しかし、自分の外と内の区別がなくなり、「外なる神」と「内なる神」が一つに融合す
ること。
つまり、「宇宙全体を包みこむ無限の愛」と、「自分の心の中にある無限の愛しさ」
が一つに融合すること。
そして、その融合した全体が「自分のすべて」になること。
そのような心境になることができれば、自分の外と内の区別がなくなる恐さも、吹き
飛んでしまうのではないかと思います。
しかし正直にいうと、私はまだ、そのような心境になったことがありません。これから
さらに精進をつづけ、そのような心境になれるよう努力したいと思っています。
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