欲望や快楽は生命の存在意義になりえない

                               2002年6月2日 寺岡克哉


 「愛」など無くてもいい!
 生きている間に欲望や快楽を思う存分に満たし、やりたい放題に人生を楽しめ
ばそれでいいではないか。それが生きる意義であり、生きる目的なのだ!
 他人に対する愛や思いやりなど、自分の人生を楽しむのには邪魔なだけだ!
 生命は、自分の欲望や快楽を最大限に追及すれば良いのであって、それが
生命の目的だし、それが生命の存在意義なのだ。
 生命の世界は弱肉強食なのだ。情けなど無用!

 と、このように考える人も、世の中には多いのではないかと思います。
 このような考え方は、人類の間に昔から根強くあります。そしてこの考え方にも、
それなりの根拠があるのです。
 生物は、まず始めに自分の肉体を成長させ、生命を維持しなければならないか
らです。そして体が十分に成長して大人になったら、子供を作らなければならない
からです。
 「食欲」は、体を成長させたり生命を維持するために必要です。「性欲」は、種の
保存のために必要です。だから食欲や性欲を満たして肉体的な快楽を得ることは、
生命の目的に適っているのです。
 また、金や地位などに対する「欲望」は、生きていくための安全を確保し、生活の
条件や環境を快適にするためにあります。
 だからある程度の欲望や快楽の追求は、「生命の肯定」にとって大切な要素に
なります。
 自己の生命や種族を維持するために必要な、肉体的欲求の充足。健康で安全
な生活を維持するのに必要な金や地位。これらのものは、生命を肯定していきい
きと生きて行くための必要な条件なのです。

 しかし限度を超えて、必要以上に欲望や快楽を追求すれば、逆に「生命の
否定」を招く原因になってしまいます。
 必要以上に欲望や快楽を求めると、喜びや楽しみを感じることが出来なく
なり、逆に「苦しみ」が増大して行くからです。


 いちばん分かりやすい例は、食欲や性欲などの肉体的な快楽です。これら肉体
の快楽には「生物としての限界」があります。そして、その限界を超えて食欲や性欲
を求めても快楽は得られず、返って「苦痛」以外の何ものでもなくなってしまいます。

 また、金や地位などに対する欲望も、それらを過度に求めれば「苦しみ」に変わっ
てしまいます。
 金や地位は、それらを獲得すればするほど、さらに多額の金や高い地位が欲しく
なって行きます。そして、この「飽くなき欲望の苦しみ」といえるものが、どんどんと大
きくなって行くのです。
 また、金や地位は得れば得るほど、今度はそれを失う不安や恐れが大きくなって
行きます。この苦しみも実に大変なもので、金や地位を失って自殺する人々が後を
絶たないぐらいです。

 そしてまた、自分だけの欲望や快楽をあまりにも貪欲に求めると、必ず他の
生命に「しわ寄せ」が行ってしまいます。このことによっても、「苦しみ」が増大
していきます。
 自分の欲望や快楽を満足させるためには、多かれ少なかれ、他の生命からの
搾取、競合、闘争などが起こります。
 これは、生物同士の「食物連鎖」や「生存競争」から始まって、人間同士の色々な
争い事や、国家の間の争いまで、ありとあらゆる生命活動の中に存在しています。
受験競争や就職戦線、出世競争なども例外ではありません。
 しかしこれは、生きて行くためにはどうしても必要なことです。とても嫌なことだけ
れども、生命を維持するためには最小限の競合や闘争はどうしても必要なのです。
 大変に悲しいことですが、生物間の全ての競合や闘争を否定してしまえば、生命
は存在できません。例えば「食物連鎖」を否定すれば、生命は存在できなくなって
しまうのです。「生きる」ということには、他の生命に苦しみを与えてしまう部分が必ず
存在するのです。
 だから生命全体の維持に必要な最小限度の競合や闘争は、嫌々ながらも、生物
同士の間でお互いに認め合っているのです。地球の生命全体を維持するためには、
それがどうしても必要だからです。

 このような状況で生命全体の存続を保っているので、一個の生物個体(例えば
一人の人間)が、あまりにも貪欲に欲望や快楽を追求すると、必ず周囲から恨み
や反感を買うのです。そして周囲からの反発が大きくなって行きます。
 貪欲に欲望や快楽を追求すればするほど、周りの者を敵に回し、争い事が多く
なります。しかもその闘争は、欲望や快楽を追い求めれば求めるほど、激しくなっ
て行きます。最悪の場合は、命を狙われてしまうこともあります。
 また、周囲から憎まれているので人間が信用できなくなり、不安、ストレス、心配、
恐怖などが常に襲って来ます。
 他の生命をあまりにも苦しめ、自分だけが利益を得るような欲望や快楽の追求
では、幸福(生命の肯定)は絶対に得られないのです。結局は、自分自身を苦し
めることになってしまうのです。

 いちばん端的な例として、絶大な富や権力を持ち、なに不自由のない生活をして
いても、周囲から強い反感を向けられれば幸福になれないことが挙げられます。
 それは既に、人類の歴史が証明しています。過去に存在した権力者や独裁者
で、あまりにも自己の欲望や快楽を追求して民衆を苦しめれば、必ず不幸な末路
をたどっています。
 民衆の支持を失い、怒りや憎悪を向けられて反乱が起こり、暗殺されたり、自殺
や処刑に追い込まれたりしています。

 生命現象には、そのようなシステムが働いているのです。一個の生物個体(ある
いは、ある特定の生物集団)が、あまりにも利己的な行動をとり、生命全体の存続
にとって有害になると、是正作用が働くのです。
 生物個体の欲望や快楽の追求が、生命全体の存続と発展に寄与している間は
良いのです。しかし、限度を超えて生命全体に悪影響を及ぼすようになると、その
ような生物個体の存在は許されなくなって行くのです。
 例えば人間以外の生物でも、ある生物種が大量発生して生態系を破壊しそうに
なれば、生態系からの色々な是正作用が働いて、その生物は大量に死んでしま
います。
 また、このようなシステムが働いているからこそ、地球の生命は40億年もの長
い間、存在できたと言えるのです。

 ところで、周囲から強い憎悪や反感を向けられない場合でも、利己的な欲望
や快楽の追求を人生の目的にすれば、「自己否定」を招いてしまいます。

 なぜなら、欲望や快楽を得るためのあらゆる努力は、結局、「自分だけのため」
だからです。そして自分は最後に「必ず死ぬ」からです。
 人生における全ての努力を、結局は死んで無意味になるもの(自分)に向けてし
まうので、生きる意義を喪失してしまうのです。
 だから人生のほとんどを欲望や快楽の追求に費やしてしまった人は、晩年になっ
てから大変な苦悩に見舞われます。そしてだんだん不機嫌になっていきます。
 自分勝手な欲望や快楽の追求は、「間違った自己愛」といえるものです。結局は
自分の生命の価値を落としめ、生きる意義を喪失させ、自己否定や生命の否定を
招いてしまうのです。

 以上のことから、限度を超えた欲望や快楽の追求は、生命の存在意義になりえ
ません。なぜならそれは、苦しみや憎しみを増大させ、生命を否定する行為になっ
てしまうからです。



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