愛と苦しみ         2004年11月21日 寺岡克哉


 前回では、「生きること」と「苦しみ」が表裏一体の関係になっていることについて
考えました。そしてそのとき私は、「愛」と「苦しみ」も同じような関係になっていること
に、改めて気づかされました。そこで今回は、そのことについてもう少し詳しく考えて
みたいと思いました。

 以下は、「ダンマパダ(真理の言葉)」という仏教経典の一節です。
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 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また
愛しない人に会うのも苦しい。
 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も
憎む人もいない人には、わずらいの絆(きずな)が存在しない。
 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れた
ならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在
しない。どうして恐れることがあろうか?
                   (ブッダの真理の言葉  中村元 訳  岩波文庫)
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 ダンマパダは、おそらく2000年以上も前から、インドや南アジアの人々によって
愛唱されていたものです。近代に入ると西洋諸国での翻訳によってよく知られるよ
うになり、もっとも数多くしばしば西洋の言語に翻訳された仏教経典です。
 その一節である上の言葉は、「愛」というものの一面がよく表されており、現代に
おいてもまったく古さを感じさせません。

 じつは私も、この言葉は何年も前から知っていました。しかし頭の中の知識として
は知っていても、心の底ではこの言葉を否定していたのです。
 なぜなら、上の言葉は「愛を否定している」ように思えるからです。
 「愛」は、人間に生きる意味を与え、人間の生きる目的であり、人間の生きる原動
力です。「愛」は生命のエネルギーの源、あるいは「生命そのもの」です。
 だから愛を否定してしまったら、人間は何のために生きているのか分からなくなり
ます。ただ機械的に生きているだけの、無味乾燥な人生になってしまいます。
 あるいは愛を否定したら、人間に残されるのは、怒り、憎悪、妬み、闘争などの、
悪くて嫌なものばかりになってしまいます。
 このような理由で、私は「愛を否定すること」には賛成できないのです。

 しかし、盲目的で激しすぎる愛は、逆に「生きることの否定」が起こってしまい
かねないのも事実です。

 たとえば「異性への愛」があまりにも激しく強い人は、失恋したり、恋人が死んだり
すれば、自分も生きてはいられないでしょう。
 「子供への愛」があまりにも強く激しい人は、子供が死んだら、生きていくことに
耐えられないでしょう。

 たしかに愛は、「愛するもののため」にならば、自分が苦しむことに耐えられます。
愛する恋人のため、愛する子供のためならば、自分の苦しみや苦労などものともし
ません。「愛」はこのような意味で、「生きる原動力」として大いに働きます。

 しかし愛は、「愛するものを失う苦しみ」には耐えられないのです。
 恋人や子供をあまりにも激しく愛しすぎる人は、それを失うことへの心配や恐怖の
あまり、神経症のようになってしまうでしょう。
 だから「失う可能性のあるもの」に対しては、あまり激しく愛しすぎない方が無難の
ようにも思えます。もしもそれを失ったときに、「生きていられないほどの大きな苦し
み」に見舞われてしまうからです。
 そのような意味でダンマパダの上の言葉は、真実の一面を語っているように思い
ます。
 このように愛は、生きる原動力であると同時に、苦しみの原因でもあるの
です。

 しかしやはり私は、愛をまったく持たないよりは、多少の苦しみがあるとしても愛を
持つべきだと考えます。恋人や子供が死んでもまったく苦しみを感じないならば、そ
れはもはや、「人間」とは呼べない代物だと思うからです。

                  * * * * *

 ところで、愛をいくら大きくしても、「生きることの否定」が起こらないものもありま
す。それは、失うことのない「永遠のもの」に対する愛です。

 例えばそれは、すべての生きとし生きるものへの愛である「慈悲」
 あるいは、「神への愛」などです。
 「地球の生命」や「神」は、永遠に失うことがないからです。(ところで地球の生命
は、数十億年後に消滅しているかもしれません。しかしそれでも、恋人や子供に
比べれば、十分に「永遠のもの」と考えることができます。そして神は、この宇宙が
消滅しようとも存在し続ける、「絶対に永遠のもの」です。)

 「慈悲」や「神への愛」には、愛するものを失う恐れや不安がありません。だからこ
れらの愛はいくら大きくしても、それこそ無限に愛を大きくしても、「生きることの否
定」は起こりません。
 それどころか愛を大きくすればするほど、ますます「生きるエネルギー」が増大して
行きます。

 しかしながら、盲目的で激しすぎる「神への愛」が、戦争やテロを引き起こすという
悲しい現実もあります。しかしそのような神は、「本当の神」などでは絶対にあるはず
がありません。
 なぜなら「本当の神」は、生命が死を恐れ、死を忌み嫌い、できるかぎり死を避け
るように、「生命」というものを作られたからです。
 「本当の神」は、地球の生命がいつまでも存続し、発展し、幸福になることを望んで
いるはずです。
 「本当の神」は、地球のすべての生命が、生きられるかぎり生き抜くことを望んでい
るはずです。
 「本当の神」が、戦争や殺戮を望むはずは絶対にないのです。

 テロや戦争を煽り立てるような「間違った神」が、人類を「本当の神」と「真の幸福」
から遠ざけているような気がしてなりません。



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