文章に命が宿ること 2004年11月7日 寺岡克哉
私は、文章には「命」が宿っていると感じています。
つまり文章は、ある意味で「生命」を持っているように感じるのです。
もちろん、マニュアルや法律などの文章のように、物質的で機械的な文章もたくさ
んあります。しかし文章によっては、「命が宿っている!」と思えるものがたくさんある
のです。
初めてそれを感じたのは、大学の研究室にいたころでした。
そのころ私は、私と同じような実験を行った外国の研究者の論文を、数年にわたっ
て何十回となく読みました。英語で書かれた同じ一つの論文を、目を皿のようにして
何十回も読んだのです。
いつも失敗つづきの自分の実験と比べながら、
この研究者は、どうしてそのような実験のやり方をしたのか?
この研究者は、どうしてそのような材料や薬品をつかったのか?
この研究者はいったい何を考え、何に悩みながら実験を行ったのか?
というようなことを、一字一句読み逃すまいとして必死でした。そんなに真剣に文章
を読み続けたのは、そのときが生まれて初めてでした。
ところがそんなことを続けているうちに、「文章には書く人の命が宿って
いる!」という実感をするようになりました。
その文章に、書いた人の「人格」みたいなものを感じるのです。その研究者が今
ここにいて、私にアドバイスしているような感じです。その研究者が私を温かく見守
り、励ましているような感じさえします。その文章に、その研究者の「生命」を感じる
のです。
その文章は学術論文なので、一見すると機械的で無味乾燥な文章です。しかし
それでも、文章の中に「生命の存在」を感じました。
私は研究生活を通して、「文章の中に生命を感じとる」というトレーニングを、知ら
ず知らずの内にさせられていたのかもしれません。
その体験は、新約聖書や原始仏教の経典を読むときにも、たいへん良く生かされ
ました。それは大学での研究生活のすべてが、キリストや釈迦と出会うための修行
だったと思えてしまうほどです。
新約聖書には、「キリストの生命」が宿っています。
原始仏教の経典には、「釈迦の生命」が宿っているのです。
それらの書物は、キリストや釈迦が今ここに生きて存在しているかのように、私に
語りかけて来ます。キリストや釈迦が、「すでに死んでこの世に存在しない人」とは、
とても思えないのです。
しかしそれはキリストや釈迦に限らず、トルストイや武者小路実篤や、その他の作
家や思想家についてもまったく同じです。
まさしく文章には、その人の「命」が宿っているのです!
* * * * *
事実、文章ほど「生命」をよく表現できるものは、他にないように思えます。
私の意思や思考、心、感情、人格・・・ これら「私の生命」を、文章ほど良く表現
できるものは他にありません。
たとえば口でしゃべる「会話」は、私の心(私の生命)を十分に表現することが出来
ません。ついつい表層上の感情にふり回されて、心の底とは反対のことを言ってし
まう場合がよくあるからです。
そして会話は、文章を書くときに比べると考える暇がほとんどありません。だから
良く考えないでしゃべったり、ひどいときは全く考えないで口が勝手にしゃべることさ
えあります。悪口や暴言などが出てしまい、あとから後悔することもあります。
また、会話だけでなく顔つきや表情にしても、私の生命を十分に表現することが出
来ません。
私は時としてポーカーフェイスになったり、あるいはその逆に、思った以上に表情
が顔に出てしまったりするからです。
たとえば私が悲しいときや落ち込んでいるときに、ゆったりとくつろいでいるように
周りから思われることがあります。また、そんなに怒っている訳ではないのに、もの
すごく怒っているように周りから思われることもあります。
このように顔つきや表情も、私の生命を十分に表現することが出来ないのです。
ところでまた、「会話」は私の話したいことがなかなか話せません。
私はそもそも、人の心、愛、生命、宗教、神、真理などについて思ったことや感じた
ことを、他人との会話で意見交換をしたいのです。しかし実際は、そんな会話などほ
とんど出来ません。テレビや新聞、芸能、音楽、食べ物、衣服、お金などの、世間一
般の会話がほとんどです。
一人ひとりが心の奥底に持っている「生命」。その生命をお互いに「共鳴」させ合う
ことなど、ふつうの会話ではほとんど不可能なのです。(現代人の心の闇や孤独は、
ここにも原因があるように思えます。)
私は、「私の生命」と「他者の生命」が共鳴して一つになるとき、自分の生命をじつ
に良く実感できます。つまり「私は生きている!」という、たいへんに大きな喜びと感
謝の気持ちが生じるのです。その「生命と生命の共鳴」をいちばん良く実感できるの
が文章なのです。
聖書を読めば、「キリストの生命」と「私の生命」が共鳴して一つになります。
原始仏教の経典を読めば、「釈迦の生命」と「私の生命」が共鳴して一つになるの
です。
その他の作家や思想家にしても、まったく同じです。そのようなとても強い実感を
私は持っています。
以上お話しましたように、文章には「生命」が存在します。「命の宿った文章」は本当
に素晴らしいものです。
私も、「生命と生命の共鳴」が生じるような文章を少しでも書けるように、日々精進し
たいと思っています。
目次にもどる