私が聖書を読みはじめた理由  
                                  2004年10月24日 寺岡克哉


 私は、聖書(新約聖書)をよく読みます。人生の悩みや不安が生じたときはいつも
聖書を開き、キリストの言葉に勇気づけられています。聖書との出会いは、私の人生
で最大ともいえる出来事であり、私の人生をとても豊かなものにしました。
 しかし私は、はじめからキリスト教に関心があって聖書を読んだわけではありませ
ん。今回は、どうして私が聖書を読むようになったのか、そのいきさつについてお話
したいと思います。

 ところで、私がキリストの存在を初めて知ったのは幼稚園のころでした。私は、キリ
スト教系の幼稚園に入れられたからです。べつに私の親がクリスチャンという訳では
ありません。月謝が安かったので、その幼稚園に入れられたのです。
 私は幼稚園の先生(シスタ)から、イエス様がクリスマスの夜に馬小屋で生まれ、母
親はマリア様だという話を聞かされた覚えがあります。いまから思えば、そのときから
キリストに縁があったのかも知れません。

 それからしばらくして私が高校生のときに、キリスト教を勧誘する外国人に呼び止め
られ、話を聞かされたことがありました。私はそのころ、宗教に対する猜疑心があった
ので、適当に話を聞いてお茶を濁していました。しかしながらキリスト教のことが少し
は気になり、新約聖書に目を通してみました。しかしそのときは、最初の1ページ目で
ウンザリし、そこで読むのを止めてしまいました。

 それからまたしばらくして私が25歳ぐらいになったとき、武者小路実篤とトルストイ
の思想に心酔しました。彼らの思想は、キリストの思想をベースにしている部分が
多くあります。だから武者小路実篤やトルストイを理解するには、聖書を読まなけれ
ばならないと感じていました。
 しかし、「聖書を読むなど、宗教にたよる弱い人間のすることだ!」という心の壁が
どうしてもありました。
 そしてまた、私が聖書を読んでいることを周りの人間に知られたら、「あいつは宗教
に洗脳されている!」と思われてしまいそうで、そのことも恐れていました。
 だから聖書を読む必要を感じつつも、なかなか聖書に手をだせなかったのです。

 その心の壁を打ち破ったのは、実用的な動機によるものでした。
 私が27歳になる年に、スイスのジュネーブにある国際研究所で、2ヶ月間の実験
を行なう予定が入ったのです。
 とつぜんに、多くの欧米人とつき合わなければならなくなってしまいました。しかし
私は、英語が大の苦手でほとんど喋れません。つけ焼き刃の英会話を勉強したとこ
ろで、とうてい欧米人との満足な意思疎通などできる訳がないと思いました。

 そしてまた私は、欧米人に限らず外国人を恐ろしく感じていました。というのは、
風習や生活習慣が異なるため、「外国人はどのようなことが気に障るのか」が分か
らなかったからです。
 それは例えば、ヤクザや暴走族はどのようなことが気に障り、とつぜんに怒りだ
すのか分からない恐怖と似ています。ヤクザや暴走族の常識や、彼らが尊んでい
るもの。それを土足で踏みにじると、たぶん彼らは怒りだすでしょう。つまりそれは、
彼らの「心」を理解できないこと、彼らと「心と心が通じ合っていないこと」による恐怖
です。
 外国人に対する「生理的な恐怖」も、たぶん同じことが原因だと思いました。

 そこで私は、「欧米人の心」を知るいちばん手っとり早い方法が、「聖書を読むこ
と」だと思ったのです。欧米人の精神的な基礎を知っておけば、たとえ英語がたど
たどしくても、心と心は通じ合えると思ったのです。
 そして私は、生まれてはじめて聖書を真剣に読みました。しかしその動機は、神の
救いを求めていたのではなく、「欧米人の心を知りたい!」という気持ちの一心から
でした。私は最初、そのような動機で聖書を読み始めたのです。
 キリスト教を信仰する人々から見れば、「不純な動機だ!」と思われるかも知れま
せん。しかしそれが、私と聖書の本格的な出会いだったのです。

 ところで、聖書を読んでみて分かったことは、「キリスト教は愛の教えである」という
ことでした。
 はじめ私は、「キリスト教は厳格できびしい!」というイメージを持っていました。しか
し聖書を読んでみると、キリストは「心の優しさ」を大切にした人であることが分かりま
した。
 キリストは時には厳しいことも言うけれど、実はとても優しい心の持ち主です。優しい
けれども、とても強い意志と精神力をもっているのです。「本当の優しさ」を持つため
には、「強い意志と精神力」がなければならないことをキリストから教わりました。
 強い意志や精神力のない優しさは、無責任な八方美人か優柔不断の類いであるこ
とを教えられたのです。

 私は聖書を読んで、キリストが大好きになりました。不謹慎な言い方をすれば、キリ
ストの大ファンになってしまったのです。
 そのようなキリストに子供のころから親しみ、キリストの言葉を重んじる欧米人は、
きっと「強い意志と優しい心」を大切にする人々に違いないと思えて来ました。そして
私も、欧米人が好きになれるかも知れないと思えるようになったのです。

 私は聖書を読むことによって、欧米人に対する恐怖が和らぎました。少なくとも、ヤ
クザや暴走族に感じるのと同じような恐怖感はなくなりました。
 今では、顔も名前もしらない赤の他人の日本人よりも、キリスト教を勧誘している
欧米人の方がなんとなく安心できるぐらいです。しつこく勧誘を迫られると厄介です
が、少なくとも「心の修養」を毎日心がけている人たちなので、突然にキレて暴力を
振るったりする心配はありません。そのような「人格的な安心感」があるのです。

 私が聖書から受け影響は他にもたくさんありますが、ここでお話したこともその一つ
でした。



             目次にもどる