生命の存在に意義を与えるのも愛である

                              2002年5月26日  寺岡克哉


 「生命が存在しないより、存在した方が良い!」と、主張できる根拠があるとすれ
ば、それは、「生命には愛が存在する」と言うこと以外にはないと、私は考えてい
ます。
 つまり、「生命が存在すること」や「生きること」に意味や価値を与えているも
のが「愛」である。
と、私は考えているのです。
 ところで蛇足ですが、この場合の「愛」とは、生命を肯定する「正しい愛」であること
は言うまでもありません。
 優しさ、慈しみ、思いやり、心の温かさ、助け合い・・・ これら生命の「善い特質」
は、全て「愛」から生じています。

 「生きることは素適だ!」
 「生命の存在は素晴らしい!」
 「やはりこの地球には、生命が存在した方が良いのだ!」
と、思うことができるのは、生命に「愛」というものが存在しているからです。

 逆に、もしも生命に「愛」がまったく存在しなかったら、生きることは「苦しみ」と「悪」
以外の何ものでもなくなってしまいます。
 苦悩、苦痛、不安、イライラ、ストレス、憎悪、妬み、嫉妬、怒り、弱肉強食、生存競
争、利権争い、闘争・・・。生命に「愛」が存在していなかったら、生命の特質は悪くて
嫌なものばかりになってしまいます。
 生命に「愛」というものが存在しなかったら、わざわざ苦しみに耐えてまで生きなけ
ればならない理由が、無くなってしまうのです。
 毎日の生きる苦しみに耐えながらも、なお、「生きることには価値があり、生命の存
在には意義があるのだ!」という主張を可能にするもの、そしてその主張を納得させ
てくれるものが、「生命に愛が存在すること」なのです。

 「愛」は、苦しみを凌駕します。愛するもののためにならば、苦しみに耐えることが
出来るからです。何かを強く愛していれば、「苦しみ」をものともしません。
 愛するもののためにならば、苦しみに耐えてまで生きることがペイするのです。さら
にそれどころか、苦しみ(苦労)が、生き甲斐や、喜びにさえなってしまうこともあるの
です。
例えば・・・
 家庭を維持するために、一生懸命に働く父親や、子供の面倒を見る母親。
 重傷者や急病患者を救うために、おおわらわになる医師達。
 難民を飢餓や病気から救うために奮闘する人々。
 平和を維持するために働く人々。
 森林や野生動物を保護するために、長年の努力を続ける人々。
 このような人々は、肉体疲労や精神疲労によるストレス、苦悩、苦痛は、かなり
大きいのではないかと思います。
 しかし、親が自分の子供や家族を本当に愛していれば、あるいは助けるべき人々
や、動物や植物を心から愛していれば、「生命の否定」などは起こらずに、仕事の
やり甲斐と生き甲斐を感じているはずと思います。

 これは、「他の生命を愛する」ことによって、逆に自分の生命にも意義が
与えられるからです。


 他の生命を愛し、そのために苦労し働くことによって、自分の存在や、自分が生
きることに対しても意義が与えられるのです。
 逆に、自分の子供や、他の人々や、動物たちを愛していなければ、「なんで子供や
他人や、他の動物のために、自分がこれほど苦しまなければならないのか!」という
思いに取り憑かれてしまいます。
 また、自分を正しく愛していなければ、つまり「正しい自己愛」を持っていなければ、
「なんでこんなに苦しい思いをしてまで、自分は生きなければならないのか!」と感じ
てしまいます。
 愛するもの(自己愛も含む)を何も持っていないと、生きる意味を喪失してしまいま
す。何のために生きているのか分からなくなります。
 「愛するもの」を何か持たなければ、苦しみに耐えてまで生きることの価値や意義
が、見出せなくなってしまうからです。
 自分の存在を憎み、それのみならず他の生命の存在をも憎んでいれば、生きるこ
とは地獄のような苦しみ以外の何ものでもありません。そうなってしまうと、生きること
や、生命の存在に意義が無くなってしまうのです。

 ところで、「生きている間に、やりたい放題に快楽や欲望を満たし、人生を楽しめ
ばそれでいい!」と、いうような欲望や快楽の追求が、生きる意義になり得ると思う
人がいるかも知れません。しかしそれは間違いです。

 欲望や快楽の追求は、生命の存在意義にはなり得ません。

 なぜなら、自分勝手な欲望や快楽の追求は、周囲に苦しみと不幸をばらまくから
です。つまり「他の生命を否定する行為」だからです。他の生命を否定しておきなが
ら、自分の生命だけを肯定することは不可能だからです。
 自分が周囲に苦しみと不幸をばらまけば、自分も周囲から怒りや憎悪を向けられ
ます。周囲から憎まれれば、いくら自分では強がって見せても、やはり不幸になって
行きます。そして結局、自分自身も「生命の否定(自己嫌悪や自己否定)」に取り憑
かれてしまうのです。
 生命現象には、なぜかそのようなメカニズムが存在しているのです。これについて
は、次回でもう少し詳しく考察したいと思います。

 欲望や快楽の追求が生きる意義にならないことの詳しい説明は、次回に譲ること
になってしまいました。しかしながら以上から、

 生命の存在に意義を与えるもの、自分の存在に意義を与えるもの、生きるこ
とに意義を与えるものが、「愛」である。

と、言うことが出来るのです。



                   目次にもどる