前向きに考えること     2004年10月17日 寺岡克哉


 昔の私は、悲観的に考えてばかりいる人間でした。どう言うわけか、ものごとを
悪い方へ悪い方へと考える癖がついていました。私のいちばん古い記憶をたどっ
てみると、たぶん4歳か5歳ぐらいのころから、そのような癖がついていたと思い
ます。
 私が子供だったころの気持ちを、今の大人の言葉で表現してみると、おおよそ次
のようです。
 まず第一に、「自分はなんて不幸でみじめな人間なんだろう」と思い込むことによっ
て、自分を悲劇の主人公に仕立てあげ、自己満足にひたっていたような気がします。
 また、私が暗く落ち込んでいると両親が心配してくれるので、そうすることよって
両親の愛情を求めていたのかも知れません。
 そしてまた、悲観主義に陥っていろいろ悩んでいると、何だか自分が周りの人間
より偉くなった気分になります。
 私が中学生や高校生ぐらいのときは、楽しそうにしている周りの人々に対して、
「あの人間たちは、人生について深く考える能力がまったくないので、あんなにも
脳天気に生きていられるのだ!」というような、ある種の見下した感情さえ持って
いました。

 しかしながら、(ある意味で調子にのって)悲観的な考え方ばかりしていると、本当
に生きるのが辛くなってしまいます。
 だから、(ある意味でまじめに)前向きに考える努力をする方が、正しい生き方の
ように思うのです。
 今の私は、悲観的に考えて消極的な生き方をするより、前向きに考えて積極的な
生き方をする方が、人生に対してまじめな態度だと考えています。だから今は、何ご
とも前向きに考えるように努力しています。

 ところで、私が「前向きに考えるように努力しよう!」と初めて意識するようになった
のは、大学生になったころでした。
 私は大学に入学すると、山岳部に入りました。そして入部後まもなく、生まれてはじ
めて「岩登り」につれて行かれたのです。そのとき私は、「落ちたらどうしよう! 落ち
たらどうしよう!」と言いながら、しきりに脅えていました。
 そうしたらある先輩から、「落ちることを考えるよりも、どうしたら落ちないで登れる
のかを考えろ!」と怒鳴りつけられました。
 あとで他の先輩から聞いた話ですが、その先輩は以前に岩登りで転落し、足の骨
を折る大怪我をしたそうです。そうしたら入院中にギブスも取れないうちから、病院
のベッドのフレームで懸垂のトレーニングをしていたそうです。その時その先輩は、
「うーん、この次はあの岩壁を絶対に落ちないで登ってやるぞ!」と言い、ニコニコ笑
いながらトレーニングに励んでいたそうです。
 私はその話を聞いて、「そんなパワフルに前向きな考え方をする人間もいるのか!」
と、衝撃をおぼえた記憶があります。ふつうならば、精神的なショックで岩登りができ
なくなっても当然のところです。
 私が、「前向きに考える努力」を初めて意識しだしたのはその時なのです。

 私はその後、山登りで体がバテて苦しくなったときは、必ず前向きに考えるように
努力しました。体がバテて動かなくなって来たときに、「もうだめだ! もうだめだ!」
と悲観的な気持ちで歩くと、本当に耐えられないほど辛く感じるのです。
 そのような時は、心の中で歌を歌いながら気持ちを楽にし、周りの景色を眺めて
「ホッ」と心を落ち着かせるのです。そして、「なーに、そのうち目的地には必ず着く
さ!」と前向きに考え、あせらず地道に一歩一歩あるけば、必ず目的地に到着する
のです。

 そのときの経験は、その後の研究活動にも生かされました。
 実験が何百回となく失敗しても、「つぎは必ず成功するさ! つぎは必ず成功す
るさ!」と前向きに考え、研究を続けたのです。
 山岳部にいたときの経験がなかったら、あれだけ粘り強く(ある意味では往生際
が悪くしつこいぐらい)研究活動を続けることは出来なかったと思います。

 研究活動でさらにパワーアップした「私の前向きな考え」は、現在の執筆活動に
生かされています。
 いま私は、「つぎはもっと良い文章を書くぞ! つぎはもっと良い文章を書くぞ!」
と、前向きに考えて文章を書き続けています。
 大学の研究では1000回の実験でやっと成果が得られたので、エッセイも1000
本ぐらい書くころには、私の思いも少しは世間に伝わるのではないかと、勝手に信じ
込んで書き続けています。(このペースだと、あと17年ぐらいかかりますが・・・ )

 とにかく、悲観的に考えてばかりいたら、生きるのがどんどん辛くなるだけ
です。良いことは何一つありません。それは私の体験から断言できます。

 たしかに、根拠のない無責任な楽観主義にも問題はあります。しかし、あまりに
も行き過ぎた悲観主義には、「自殺」という破滅が待っているだけです。
 やはり、何ごとも前向きに考えて積極的に生きる方が、人間の生き方として正しい
ように私は思います。



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