自分を表に出すこと      2004年10月3日 寺岡克哉


 むかし私は、自分を表に出さない人間でした。
 自分が本当に思っていることや、本当の気持ちを、決して他人に話さない人間
でした。
 だからいつも、周りの人間との「心の壁」を感じていました。というよりは、自分か
ら心の壁を作っていたのです。

 上っ面の調子を合わせるだけの人間づきあい。学校の部活、大学の研究室、職
場などといった、組織の上下関係だけの人間づきあい。そんなものに、さびしさや
空しさ、苛立ち、そしてあきらめを感じていました。

 もちろん、私は人当たりのよい人間を演じていましたから、表面上は孤独になる
ことがありません。一緒に食事をしたり、酒を飲んだり、カラオケに行くような友人
は、いつも私の周りにいました。
 しかし、ガッチリと心の底から理解し合えるような人間や、魂の共鳴を感じるよう
な人間は、私の周りにはほとんどいませんでした。

 そもそも私は、愛や生命、人の心、生きる意味、そして宗教や神などと言ったもの
について、漠然と悩んでいた時期を含めると、もう20年以上も前からいろいろと考え
てきた人間です。
 しかしそれを、周りの人間には絶対に話しませんでした。もしもそんなことを話せ
ば、私とつき合ってくれる人間など一人もいなくなると思ったからです。

 「あいつは変な思想に染まっている!」
 「もしかしたら、変な宗教にはまってるんじゃないか?」
と、周りの人から決めつけられるのが恐しかったのです。
 しかしながら、私の本当の気持ちや考えを誰にも伝えなければ、だれも本当の私
を理解しないのも当たり前です。

 それを世間に向かって本気で言おうと思った(つまり本の執筆を始めた)のは、今
から4年ほど前です。
 なぜ私は、そのように変わったのでしょうか? ここでは、そのいきさつをお話した
いと思います。

                 * * * * *

 むかし私は、自分の思っていることや考えていることを他人に伝えなくても、べつ
に何のストレスも感じませんでした。
 「どうせ他人になんか、私のことなど理解できるわけがない!」
と自分で勝手に決めつけ、それで自分自身も納得していました。
 しかしだんだんと、自分の気持ちや考えを周りに伝えないと、ストレスを感じるよう
になりました。
 そして、「自分の思い」がうまく言葉や文章に表せたときや、それを聞いてくれたり
読んでくれた人に理解してもらえたときは、この上ない喜びと感謝の気持ちが湧き
起こるようになりました。

 私がそのように変わったのは、今から思えば、大学の研究室で受けた教育による
ものだと分かりました。
 研究室では週に一回、研究の経過報告や、研究の方針を話し合う会議がありま
した。その場で私は、
 分からないことを質問しないのはサボりだ!
 自分の考えや意見を言わないのはサボりだ!
ということを、徹底してたたき込まれたのです。

 ところで、分からないことを質問するのは恥ずかしいことです。なぜなら、自分の
無知や理解力の低さをさらけ出してしまうからです。
 また、自分の考えや意見を言うのは恐ろしいことです。なぜなら、自分の間違い
を指摘される恐れがあるからです。
 しかしながら研究室では、分かったふりをして無難にやりすごそうとしたり、自分
の考えや意見を言わないで済まそうとする態度は、絶対に許されませんでした。
 すこしでも気を抜いて「ボケーッ」としていると、教授からいきなり名指しされ、
 「お前はそれをどう思う?」
 「お前はその結果についてどう考える?」
と、意見を求められるのです。もちろん、その前に分からないところを質問して理解
していなければ意見を述べることができないので、それもバレてしまいます。
 私が話を理解していないのがバレると、どこが理解できていないのか徹底した質
問攻めに合います。そして私が理解している所まで話をもどすのです。お茶を濁し
てその場から逃げること(つまり、うまく誤魔化して言い逃れること)は、絶対に許さ
れませんでした。
 つまり私はこのとき、「質問をして恥じをかく勇気」や、「間違いが指摘されるのを
恐れない勇気」を、たたき込まれていたわけです。

 しかしながら、
 質問なんかして、自分の無知をさらけ出したくない!
 意見なんか述べて、自分の間違いを指摘されたくない!
というような「心の壁」は、たいへんに大きなものでした。
 私がこの「心の壁」を克服するのには、かなりの努力と時間がかかりました。私の
場合は3年もかかったのです。とくに私は、プライドが高くて傷つきやすく、人づき
あいの苦手な人間なのでなおさらでした。

 しかし、その「心の壁」を乗り超えると、話し合いによって他人と理解し合えるよう
になりました。
 研究の分野という限られた世界ですが、話し合いによって心と心が通じ合える感
覚、「話せば分かる!」という実感が、私の人生で初めて得られたのです。そのとき
の喜びや充実感は、はかり知れないものがありました。
 そのような体験ができたお陰で、いまの私は厚顔無恥とも思えるぐらい、自分の
気持ちや考えを話せるようになったのです。

 もちろん、なんでもかんでも思ったことをすぐに口から出せば、相手から反感を
買うのは当たり前です。その弊害は決して小さくありません。(たとえば酔った勢い
で口論となり、殺傷事件が起きてしまうなど。)
 しかしながら、相手と違う意見を言ったのに、まったく角が立たないというのもあり
えないのです。
 折り合いが悪くならない程度の適度な摩擦は、人間どうしの相互理解には
絶対に必要です!

 それをあまりにも避けて通ろうとすると、それこそ誤解が誤解を生み、怒りや憎し
みがとんどんつのり、最悪の場合は突発的に殺意まで生じてしまうのではないで
しょうか?



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