宇宙の原理 3 2004年9月5日 寺岡克哉
はじめ私は、「宇宙の原理」という言葉を、単に「神」という言葉に代わるものとし
て導入しました。
しかし今、「神」と「宇宙の原理」とは、決定的に違うことに気がついたのです。
それは、「神」は信仰する者にしか存在しないが、「宇宙の原理」は信仰の
あるなしに関係なく存在することです。
なぜなら、この宇宙に「存在するもの」が存在している以上は、「それを存在させて
いる何か」(つまり宇宙の原理)が存在するはずだからです。
たとえば、この宇宙に「時間や空間」が存在する以上は、「時間や空間を存在させ
ている何か」が存在するはずです。
この宇宙に「物質」が存在する以上は、「物質を存在させている何か」が存在する
はずです。
この宇宙に「生命」が存在する以上は、「生命を誕生させ、それを生かし続けてい
る何か」が存在するはずです。(地球は宇宙の一部だから、地球に生命が存在する
ことは、宇宙に生命が存在することです。)
そして・・・ この宇宙に「愛」が存在する以上は、「愛を生じさせる何か」が存在する
はずなのです。(小さいとはいえ人間も宇宙の一部だから、人間の心に愛が存在す
ることは、宇宙にも愛が存在することです。)
このように「宇宙の原理」は、信仰のあるなしに関係なく「論理的に存在しなけれ
ばならないもの」なのです。
つまり、私が考えるところの「本当の神」(宇宙の原理)は、無理に信仰などしなくて
も厳然と存在するのです。
ところが一方、たとえば「中世の時代の神」などのように、人々に信仰を強要しなけ
れば成り立たないような神は、なにか人為的で作為的な感じがします。
そのような神は、どうしても「宇宙の原理」に反しているように感じます。つまり「不
自然」なのです。
そのように感じるのは、それが人間の自分勝手な思惑で作られた「にせ物の神」
だからです。そして事実、そのような神は、金儲けの道具や戦争の道具に使われた
りするのです。
しかし「宇宙の原理」(本当の神)は、宇宙の全体を司る根本原理として存在し、人
間の勝手な思惑に左右されないのです。
人間がどのように考えようと、「宇宙の原理」は厳然と存在します。
人間はただ、「宇宙の原理」に注意深く耳をかたむけ、その声を忠実に聞き取るだ
けなのです。
「宇宙の原理」には、人為的で作為的なことが入り込めません。盲目的な信仰も必
要としません。だから「宇宙の原理」は、理性によって認識のできる「科学的な神」と
言えるかもしれません。
ところで、「中世の神」が「自然科学」に打ち負かされたのは、人間が作為的にねじ
曲げた神よりも、自然科学の方が「宇宙の原理」に適っていたからです。
つまり、「にせ物の神」よりも「自然科学」の方が、「本当の神」に忠実だったから
です。言葉をかえれば、科学による客観的な実証が、人為的で作為的なごまかしを
打ち破ったからです。
しかしながら、「科学技術」に対しては注意が必要です!
ここで私があえて「科学技術」と言ったのは、「自然科学」と「科学技術」とは、まっ
たく異なるからです。
たぶん多くの人が、これらを混同しているのではないかと思います。だから「自然
科学」と「科学技術」の違いを、すこし説明したいと思います。
「自然科学」とは、大自然の原理、つまり「宇宙の原理」に忠実に耳をかたむけ、
それを注意深く観察することによって、その隠れた法則を見つけだす学問です。
一方「科学技術」は、自然科学によって見つけた法則を、人間の都合の良いよう
に「利用するもの」です。
たとえば、飛行機やロケット、自動車、原子力発電所や原爆、テレビやパソコン・・
・・・ 等々。これらは自然科学ではなく「科学技術」なのです。
だから、これらのものをいくら研究しても、大自然の中に隠された「新しい自然法
則」を発見することはできません。なぜならこれらのものは、すでに発見された自然
法則を「利用している」に過ぎないからです。
つまり、「自然科学」には人為的で作為的なものは含まれませんが、「科学技術」
には、「人間のための利用」という人為的で作為的なものが必ず含まれるのです。
だから、「自然科学」は宇宙の原理に反することはありませんが、「科学技術」は
宇宙の原理に反することが多々あるのです!
それは、原爆や水爆などの大量破壊兵器の開発、地球環境の汚染や破壊、生態
系の破壊、地下資源や生物資源の枯渇など、その実例はいくらでもあります。
このように科学技術を、「宇宙の原理」(生命を存在させ、生かし続けているもの)
に反して使用すれば、地球の生命を滅ぼしかねないのです。
宗教も科学技術も、それが「宇宙の原理」に適っているうちは有益ですが、
それに反した時点で有害になるのです!
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